自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

03/02/2018: 今日は二宮飛鳥さんの誕生日だそうです

2月に差し掛かったので、新たにカレンダーを買う必要がある。私がカレンダーを見るのであれば、という話だが。前年のカレンダーはご親切にも一ヶ月先の暦まで用意してくれている。カレンダーに限らず、そうした「親切さ」を目の当たりにするたび、私は吐き気を催す。吐き気はさておき、このブログを散文日記にしてからというもの、人々からの反応が薄く、そういうものかと思っている。とは言え、本来の目的は備忘であるということを忘れてはなるまい。元々観衆など殆ど居ないのだから。

さて、タイトルの通り、今日は二宮飛鳥さんの誕生日だそう。私が二宮飛鳥さんのことをお慕い申し上げているのは過去記事の通り。私に絵が描けたならば、彼女に纏わる美しい物語を紡げたならば、彼女の誕生日をささやかながらも祝うことが出来ただろうに……と思う。(造形に限らず)美しいが架空存在に留まってしまう彼女を、少しでも実存として残すことが出来たら、と私は慚愧の念に堪えない。創作の持つ力を私はもっと早くから認識するべきであった。私は余りにも何も身に付けないまま齢を重ねてしまった。

これに関連するわけではないが、敬愛する先輩が「『私にはコレがある』というものがないので辞めます(要約)」と言い残し弊社を辞めるということが最近あった。彼女の進路は法曹だと言う。もう三十路も近いというのに。常に自らを問い続ける類の(真の意味での)人間にとって、自己とは何かというのは宿命的な問いである。幸か不幸か、私はそういった人間のカテゴリーに属することができた(そうしたカテゴリーに属することが幸福であると信じたい、望みたい、彼女も又然り)。彼女曰く、会社の用事で誰かと会うときにも「それでお前は何が出来るんだ」という有形無形のメッセージを感じるとのこと。全くそれと同じことを感じ、心を痛めるが、何も持たない私は沈黙を守る他ないというのが実情である。

私は考えあぐねている。私は今、何を為すべきで、どういった方向に向かうべきなのかを。少なくとも今行われている日々の積み重ねに展望はない。悲しいかな、我々はそうした時代に生まれついてしまった。焼畑農業を繰り返す現代において、安住の地を求めるというアプローチは自死のみを招き、それを知っている我々は時代の要請として渡り鳥であること強要される。誰も本質的には求めていやしないユートピアに向かって、人々は歩みを止めない。ゲームから降り、澱として生きることが出来たら、ひいては全てを擲つことが出来たら、と嘯きながら毎朝奴隷船に乗っている。

(既に看取している方もいらっしゃるだろうが)私は今Alcoholにより酔っ払っているというExcuseを出さざるを得ない。酒に酔わねばこんな取り留めもないことを誰かに(誰だ?)伝えることなど出来ない(くらいに私は弱い)。このまま私が生き続けることについて何らかの展望があるのか、という最初に問うべき問いにすら私は答えられない。救済は教えによってしか得られないのか、掴み取る営為によってしか得られないのか?後者であることを祈りつつ、私は今日も明日も明後日もそのまた先も、戦わねばならない。張り詰めた細い糸がいつ切れるのかという事実から目を背けながら。