自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

14/02/2018: 地の果て

残しておかねば忘れてしまうような気がしたので、平日の夜ではあるが書き残しておく。

大地が終わる場所、それは即ち海に面する場所のことであり、その中でも陸の端が突き出ている場所を岬と呼ぶのは誰でも知っていることであるが、幼い頃から私はそういった場所に心を惹かれて仕方がなかった。思い出せるだけでも、宗谷岬、竜飛岬、潮岬、都井岬足摺岬禄剛崎石廊崎と、数多くの岬を回った記憶があり、それぞれの地の、似通っているようで全く違う景色をまざまざと思い出すことが出来る。海と、山と、天体たちだけがただそこに美しく佇み、そこはかとない亡びを感じさせる情景以上に見るべきものが一体どこにあるだろう。

岬ではないが、この前の休日にも海の見える北の町へ行ってきた。まあ大洗なんですけれども。冬は北を攻め、夏は南を攻めるべしというのは孫子の兵法にもハッキリと書いてある。冬に、しかも北方の海沿いの町に行くのであるから当然寒いのであるが、寒さは動くことで暖まれることも含めて、自分が生きているという実感を得られるので良い。

当初の目的は鮟鱇鍋を食すこと。性懲りもなく鍋を食っている。ところで、その土地のものが美味いのだという指摘は別として、「それは東京で食えるだろう」と宣う人間とは私は恐らく仲良くなれない。金さえ出せば得られるような味覚や、お仕着せの非日常に私は興味を一切持てない。旅の予定を組み、自分の足で見知らぬ町を歩き、心地よい疲労を得たのちに味わう食事にこそ魂が宿ると信じている。斯くして味わう鮟鱇鍋と日本酒は絶品であった。しかしそれ以上に私の心を躍らせたのは、特に何の説明もなく海に浮かんでいた鳥居であった。それは観光名所と呼ぶには余りにも地味で、写真に映えもしないものであったが、えも言われぬ物哀しさと神々しさを湛えており、自然その鳥居の周りにはある程度の距離を置いてちらほらと人々が集まっていた。私は鳥居も好きなので(特に大雪を被った鳥居や、夏の夕暮れの光を浴びた鳥居は最高!また何かの機会にインターネットの海に放流するか)、思いがけず出会った光景に、旅の醍醐味を勝手に感じていた。思い立ったら大体何処でも行けないということはないので、こういった機会は逃さず捉えていきたいと思う次第(あとは愚かな思い付きに付き合ってくれた同行者にも感謝)。