自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

30/07/2017: Gift

風呂場でボディーソープの詰め替えをしていたら、シャボン玉ができた。液体石鹸を押し出す右手の力と、詰め替え用袋の先端にある注ぎ口の断面と、その袋に残っていた空気の量とが絶妙に作用し、小さめのシャボン玉が勢いよく飛び出してくる。自分が作り出した物としては何年ぶりか、まるで見当も付かないそれに一瞬視線を奪われてしまい、その後もう一度、と思い袋を絞ってみたが、もう空気と気の抜けた音しか出てこない。正常な手続きに則らない作り方をしたからだろう。
シャボン玉には平和と儚さのイメージがある。「シャボン玉を吹いて作る」の主語は、風呂場の男ではなく、温かで平和な家庭に育った子供達であり(またその子供達をかくたらしめたのも平和な世界であり)、そしてシャボン玉は屋根まで飛んで、儚くも壊れて消える。野口雨情という人が作詞した童謡においてシャボン玉は彼の夭逝した娘を指していると聞いたことがあるが、少し調べてみるとどうやらそれも定かではないらしい。過去における「理由」に就いては、あらゆる説が平等に曖昧だ。酸いも甘いも彼方に押しやってしまう時間には、誰も逆らえない。
歌われているように、シャボン玉は空気の流れによって生まれ、空気の流れによって死ぬ。やや強引な連想ゲームではあるが、紙飛行機もそうだろう。風がなければ紙飛行機は飛ぶことが出来ず、強すぎる風は紙飛行機を墜落させる。子供達が生み出す平和の象徴は、どちらも空をあてどなく彷徨い、命を与えたモノによって殺される。

例えば「いじめ」と呼称される行為が一切ない世界があったとする。誰もが個人として尊重され、不当な干渉を受けない世界。「正しさ」や「優しさ」のような、誰もが首肯すべき概念に導かれ、多くの人々は理想とする世界の建設に精を出している。それ自体は非常に歓迎すべきことであろう。しかし仮にこれが完全に実現されたとして、いま「いじめ」と呼称される行為を受けている人たちにどのような変化が訪れるか、想像してみたことはあるだろうか。悲観的に考えた場合の端的な答えとして、そこに待っているのは「透明な存在」としての生だけではないのかと、僕は思ってしまう。褒められもせず、苦にもされず、悪く言えば相手にすべき相手と認識されず。そうした彼彼女らの、行く宛てのない息苦しさや空虚さは、何処へ置けばよいのだろう。既に多くの人が気付いているように、誰もが首肯すべき概念たちは、人々の優しさという名の無関心は喚起しても、決して自ら手を差し伸べてはくれない。何故ならそうした姿勢こそが「正しさ」であるからだ。手を持っているのは、どこかに瑕を抱えたはぐれ者たちだけ。無菌化された世界の中では、他者と良好な関係を築けないという事実は、全てその当事者の責に帰され、個々人が結果を受け止めなければならない。でも、僕の知る限り多くの人間は、いまの現実が、過去の自分の行動だけを変数とする関数であると認識できるほど頑丈には出来ていないと思う。そんなのは残酷すぎる。自分が上手くいかなかったことは、例えそれが欺瞞だとしても、心のどこかで誰かの所為にしなければ耐えられないし、私怨を募らせる権利を留保しておきたいものではないだろうか。如何にそれが不健全で間違った形であったとしても、生きるために取らざるを得なかった戦略を奪うことの威力に、我々は敏感であるべきだと思う。人間が成し遂げられる最大限の「優しい世界」でも、このように形を変えた残酷さは残念ながら取り除けない。ちなみに、僕は教育問題にフォーカスしたい訳では全くない。いわゆる「いじめ」の場合、個人的な信念として加害者の非が占める割合が支配的である。ここで扱っている問題は、もっと広範かつ一般的であり、大人と大人の関係に類するものとして考えている。
道徳にしても同様。「私の常識は貴方の非常識、逆も又真なり」という、道徳に対する道徳的姿勢を公理として受け入れたが最後、人間を縛るものは逆説的にも、罰則を伴う無機質な規則しかなくなる。道徳を突き詰めた結果、道徳は力を失うのである。

毒によって我々は生を受け、毒によって我々は自由を手にし、毒によって我々は死ぬ。芸術的とも言えるバランスの上に、束の間の穏やかな生がある。