自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

13/03/2016: 休日と過去

今週もまた大学時代の友人と週末を過ごし、居心地の良さに身を委ねていた。そうして過ごす休日は充実したものに感じられ、とても楽しいのだが、同時に一抹の不安も覚える。僕は、いつまで過去に生きているのだろう。

個人的な信念として、自分の人格というものは絶えず革めて(敢えてこの表現を使う)いかねばならないと考えている。将来的に自分の人格を豊かにし、積み重ねてきた人生の重さに見合うものとするためには、自分にとって快適な領域を脱し、様々な人と深い関わりを結ぶことが欠かせない。勿論、顔見知り程度の人間を増やすということでは全くなく、他者という存在の不可解さや、彼彼女等の価値観、自己の思わぬ一面を発見できるような出会いが必要だということだ。 さもなくば、 自分の人格はいつまでも子供のまま、狭い視野に囚われ続け自分の可能性を広げることは出来ない。赤ん坊が自我を形成し成長してゆくプロセスの中で、他者とのコミュニケーションを無視できるとする人はいないと思うし、僕はそのプロセスは死ぬまで続くものだと思っている(学術的に相当怪しいことを言っているのはご勘弁)。僕は幸いにも大学時代を通じて、人数は多くないが深い関わりを持つことができた人々を得ることができたし、彼彼女等から計り知れない影響を受けた。僕の人格はそれを通じて遥かに成熟したし、純粋に彼彼女等と関わっている時間は豊かであった。

人格の豊穣など無用ではないか?全くその通りである。全てはいつ来るかも分からないような将来の安寧のため。年老いたとき、呆れるくらいの、もう取り戻せないような自分の未熟さを思い知らされることほどの恐怖はない。僕は自分のことを、怯えることによってしか行動できない人間だと思っているし、それは決して珍しいことではないとも思っている。

ここでようやく冒頭の不安に立ち返る。未だに僕は大学時代の友人と、過去の延長戦を楽しく演じている。結局のところ、僕は平日に押し込められている社会という極めて居心地の悪い場所からの逃避として、休日は閉じた快適な領域に安住し、一歩も進むことができていないと感じてしまうのだ。何も休日も心を休めるなと言いたい訳ではない。ただ、非常に消極的な時間の使い方をしているという後ろめたさが付き纏うのだ。延長戦の最中にもお互い多少の変化は見られるが、「やっぱり変わらないね」という落ちである。無論彼彼女等にも僕自身にも、何の非もない。誰も何も悪くない。寧ろ会ってもらっておいて僕は何をふざけたことを抜かしておるのだといったところだ。時が流れるということ、この厳然たる事実のみが根源である。

こんな日々は永遠には続かない。と言うかもうすぐ終わる。家庭が云々という話は本質的ではない。それぞれがそれぞれの生活を確立し、それが僕の生活と交わらなくなった時、このままでは、僕は自分の人格が置いていかれていたことに、そして自分の周りにはもう誰もいないことにようやく、心から、気付くのであろう。そのとき僕に残された手段とは一体?