自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

08/04/2018: 新生活スタート号

引っ越しに伴う諸々の作業で更新が滞っていた。本を読むためのまとまった時間も取れず(今週はようやく2冊読めたし、こうして久々の更新を行う余裕もできた)、友人を新居に迎えられた以外は、生活の体勢を整えるために最近の時間を空費してしまったと言える。これまで新居に招いた人間(延べ10人強)のほぼ全員が、他人の家に上がり込んでまず初めに本棚の検閲をやる人種であったという事実は、寧ろ私という存在をある一面で浮き彫りにしているように感じる。我が新居は頗る快適だが、様々な理由で長居はしないだろうとも思う。どうも空間を持て余すし、こちらの心持ちによってはモノばかりがあって空虚な印象さえ受けてしまう。ユニバースを作る余地のある4畳半こそが私にはお似合いだ。ちなみに階下には若いカップルが住んでおり、2人の苗字は異なっているが、それが果たしてステータスの問題なのか、イデオロギーの問題なのかは、私には知る由もない。引っ越しの挨拶と共に私が彼らに送り込んだ和菓子折は彼らについて何かを知っているだろうか。その菓子を受け取ったのは女であり、私が遅刻寸前のタイミングで玄関において鉢合わせたのは男であった。そして私は、その2時点間において恐らく違いを殆ど認識できないような、出来合いの微笑みを投げる。仮に怪しく見えたとしても、自分は敵ではないと明示しておくのは手筋である。ところで、私に似合う生活とは。

労働に関しては、最早私は語ることを持たない。そこに在り、遣り、葬るだけ。箪笥に洗濯物を畳んで収納するように、億劫で仕方ないが、やるべきことは身体が覚えており、偶に母親の小言が入る。それだけのことである。イレギュラーの到来を待ちながら、心の底では来て欲しくないと願っている。こうして人は自分の色と知恵を喪っていく。

以下散文(上も然りだろうが……)。

鹿児島の事件。今後わが国ではこうした事件は頻発するだろうという予感がある。主観的には全てを終わらせなければならない状況に追い込まれる人々。何が最も強く作用している要素なのかは正直よく分からない。ところで常夏のあの島では一つの答えが出たという。昔(1~2世代前)もそういう人間は必ず居たと思うのだが、(敢えて不適切な表現を使うならば)どう「処理」されていたのだろうか、そしておそらく文献にも統計にも表れない「歴史未満」「データ未満」に人間はどう向き合えばよいのだろうか。無視できるモノに対して無視以外の選択を取る人間は聖者か狂人でしょうが。前者の問いに関しては今度実家に帰ったときにでも祖父母や両親に訊いてみるか。後者の問いは。

バーチャルユーチューバー。上記に関連して言えば、全てを半分終わらせる方法、という認識がある。自らの肉体という桎梏から逃れたいと思う人間は世界の何割を占めるのだろう。小洒落たデパートに行き、服飾売場、化粧品売場、アクセサリー売場(造詣が浅いのでこれが正しい名称かは分からない)を横目に歩き、美しい商品群に目だけを惹かれる。翻って私が買うモノと言えば出張先への手土産か、無難なネクタイが関の山である。正直に言って、私が美しい人間を最も羨ましく、妬ましく感じるのはその瞬間だ。彼彼女等は、自分で自分を玩んで、誰にも迷惑を掛けることなく幸福を手に入れることが出来る。自慰なんかじゃ及びも付かない快感であろう。仮に私がどんなに賢くても、どんなに金を稼いでも、どんなに欲しいモノを手に入れたとしても、その領域だけは不可侵である。さて、私と思いを同じくする人間が多数派を奪取したとき、世界の主戦場は民主的手続により電脳空間に移るのだろうか。「外見による差別のない正しい世界へ」と叫ぶ政治家のパフォーマンスには広告代理店の技術の粋が集まるという妄想がある(ちょっと見てみたい)。世界の半分が自分の半分を終わらせたいと願う時代、75%未満になった世界は誰を幸福にするのであろうか。キング牧師の死から丁度半世紀。「私の夢」はバーチャルアイドルになった。

読書。平田オリザの『演劇入門』が面白かった。98年初出の本なので、やや時代認識が古いが、演劇に限らず創作物全般に関して、どういった台詞や場面、全体構成の組み立て方が効果的なのかについて極めて分析的に論が立てられており、自分が様々な作品に対して抱いていた印象が丁寧に言語化されていた。新発見としては、コンテクストの摺り合わせという観点で演出家と役者の関係性を整理している点及び、両者の権力関係を緩和するためにどういった策を講じているか、といった点。以前読んだ『スクリプトドクターの脚本教室』の内容が一部濃縮されている(後者の本はイマイチだったが)印象。次は話題の、歴史学者を廃業したあの先生の本でも読んでみようか。彼の立場を極めて乱暴に要約してしまえば、現在において歴史学の作法に依って歴史を語る、論じることに最早意義はないのではないか、といったところだろうが、これは私が漠然と抱いている問題意識にも一致する(超・僭・越)。”Post-Truth” の時代、歴史もまた個々人のビタミン剤のような服用のされ方をするようになっていくのだろうが、一体誰がそれにNoを突き付けられるのだろうか、という倫理的な問題も孕んでいると自分では理解している。

アニメーション。冬クールが終わった。粒揃いであったように思う。クール内で言えば『宇宙よりも遠い場所』がNo.1か。ボロボロ泣いてた記憶しかない。全話録画済みということもあり、これはまた稿を改めて書いてもよさそう、と言って『カリオストロの城』の感想もまだ書いていないのだが。ちなみに当面の人生の目標は同作のラストみたいに『気持ちの良い連中だな』と誰かに言って貰うこと。実は引っ越し直前にシンガポールに出張し、聖地巡礼は一部済んでいるので、暖かくなってきたこともあり今度は館林と立川にも行ってみようかと画策している。ってか最近旅行してねえ、本当によくない。そして今期は『ペルソナ5』でしょう。初回の滑り出しは上々(地上波で鴨志田の城を何処まで表現するのだろう……)。私は東郷さん推しなのだが、まあ尺も足りなさそうで物語にはそんな絡んでこないだろうし、期待しないで待つか。