自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

21/07/2019: 『天気の子』感想

例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして、僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だと思う。誰だってそうだろう。でもきっと、本当は途轍もなく重たいはずのその問いに、かくも簡単に答えることが出来るのは、僕らが、その問いはあり得ない仮定だと知っているから、真の差し迫った選択ではないと知っているから、そんな形で世界の滅亡など訪れないと知っているから、なのだろう。しかし実際は、僕らはそれとは違った形で、でも内実としては同じ選択を日々重ねている。そしてその選択の結果を、自分たちとして受け止めなければ、あるいは誰かに受け止めさせなければならない。そして世界は彼方に確かに存在する滅亡に向かって、時々刻々と、ほんの少しずつ近付いたり離れたりしている。

映画『天気の子』を観た。新海誠監督としての転換を含む傑作であったと思う。私が本作を「転換」でありかつ傑作だと感じた最大の理由は、要すれば「社会との対峙」と「物語の続き」を逃げずに、現代的な感性を上手く埋め込みつつ描き切ったこと、だと考えている。この観点に沿って、本作の感想を簡単に記す。

 

注:1回観て、その後の勢いで書いていることもあり、事実誤認等あったらすみません!

 

<「社会との対峙」について>
本作の舞台となる雨続きの東京は、月並みな表現だが、過去との比較において閉塞感の溢れている今の日本社会の比喩だろう(もしこれが間違いなら、ここから先の文章は全て無意味なので読む必要はない)。間宮夫人は東京の天気のことに触れながら「今の子供たちは可哀想」と嘆いているし、これを聞いた須賀は、後に「世界は元々狂っている」と語る。東京タワーとスカイツリーを同時に映すカットも印象的であり、時代の必ずしも望ましいとは言えない移り変わりを暗示している。
社会という概念の導入という面では、登場人物間の世代の違いを観客に意識させる描写、あるいは登場人物たちが世代の違いを意識している描写が散りばめられていることにも気付く。まず本作では、未成年、特に帆高が(彼の直向きさを表現するにしても過剰なほどに)徹底的に愚かで無力な存在であることが強調されている。Yahoo知恵袋に質問を投げ、金もないのに週刊SPA!を買い、歩いて48分の場所にバスで行く、といった笑えるところはともかく、帆高は拳銃や陽菜の特殊能力なしに警察や不良を撃退することは(当然ながら)できなかったし、発言も浅薄で、他者が自分の発言をどう理解するかという配慮は一切なし、先のことは考えず、陽菜と共に在りたいということ以外に何の動機も考えもない、といった有様である(これはまた別の効果もあると思うのだが、それは後述)。その対比として、登場する大人たちの殆どは常識的、善人であると言ってもよい人々であるが、そうであるが故に帆高の行動の障害となる(例外として、大学生でモラトリアム期にある夏美は、帆高の考えにある程度理解を示している)。大人と子供が対比されていることだけを以て、本作に社会という概念が導入されているとは言えないが、このほか、世代間のステレオタイプな意識を思わせる台詞も多い。先述の間宮夫人の嘆きや、安井刑事の「今のガキは何でもネットに書く」という発言、夏美が泥酔した須賀に対して放つ「昭和!」という罵り、他方で彼女の口から自然に出た「イマドキの子はすぐに訴える」という冗談などである。ここに述べた台詞に含まれている認識は、何れも事実とは異なるもの、ピントのずれたものであることは、今の日本社会の状況を踏まえると、偶然ではないだろう(2つのタワーの話はどちらかというとこちらの文脈に回収されるのかもしれない)。
こうして、社会という概念が導入された本作において、帆高と陽菜はそれに強い意志を持って対峙する。注意しなければならないのは、帆高と陽菜が対峙しているのは、個々人の大人ではなく、その総体である社会であり、社会の中で共有されている「正しさ」である(廃ビルのラストシーンで、帆高が拳銃を向ける相手を定められなかったのが象徴的)。「正しい」決断をするのであれば、帆高は神津島に帰るし、陽菜は天界の人となる。帆高と陽菜の決断が我々に問いかけることは、誰か一人の犠牲や想いを踏みにじることによって支えられるほど、社会の「正しさ」は重要なのか?ということ、もっと踏み込んで言えば、自らが結果を引き受けないような選択を、他者に強いることは出来るのか?ということだろう。人々は何の代償も払わず、責任も負わず、陽菜の消失によってもたらされた晴れた世界を享受する一方で、帆高と陽菜は水没した東京における日々を受け止める覚悟がある。ある選択が決定的に世界を変えることはないが、あらゆる決定の集積として世界は変わっていく(須賀の最後の一連の台詞はこのことを言いたかったのだと思う)中で、自らの選択の結果を受け止めて生きていくことを止める権利は誰にあるのか。「誰にも迷惑掛けてない」のに干渉してくる社会が、どうして誰か一人の犠牲を強いることができようか。本作で伝えたかったメッセージはここにあるのではないかと考えているし、私はこの問題意識に強く共感する(ここではこの問題意識の詳細には立ち入らない)が、新海監督が公開前に「賛否を呼ぶ」と表現していたのはこの箇所ではないかと推察する。

 

<「物語の続き」について>
現実世界においては、終焉も大団円も訪れることはない。終焉や大団円が存在するのは物語の中だけであり、現実世界においては、輝かしい何かを成し遂げた後にさえ必ず何らかの問題が発生し、人々はその問題と向き合っていかなければならず、破滅的な出来事の後でも生き残った人々はそこで生きていかなければならない。
帆高が陽菜を救い、東京が水没した世界においてもなお、人々は生活を営んでおり、現実を受け止めるため世界に対する自分の認識を少しずつ変えながら生きており、花見を楽しみにしていたりさえする。決して絶望はしておらず(水没後の世界の最初のシーンで、敢えて「ポジティブだね~」という台詞が浮くような音作りにしてある)、元々狂っている世界に自らの選択で影響を与えた帆高と陽菜は、その結果を引き受けて、この先も生きていく。ここで描かれているのは、言うなれば「物語の続き」の世界である。そこで二人は再会し、「大丈夫」であることを確かめる。決して「完璧」でも「良く」もないが、「絶望」でも「悪く」もない。ただ、ここに二人で、知っている人々と共に在り続ける日々は「大丈夫」で、陽菜の周りには小さな晴れ間が覗いている、と締めくくるのは、とても誠実で、爽やかなエンディングだと感じた。言うまでもなく、こうした世界の認識は、現代の価値観とオーバーラップする部分が大きいと思う。”Weather” の動詞には「困難を乗り越える」という意味があり、英題の ”Weathering With You” はまさに物語の続きのことを指しているのだろう。

物語という観点で言えば、帆高が家出をした理由も、陽菜が児童相談所に行きたがらない理由も、劇中では何一つ具体的には明かされていない。通常の、お手本となるべき物語であれば、観客を納得させるだけの登場人物の動機、来歴、過去の出来事などを描いているはずだが、本作はこれに反している。明確な動機なしに登場人物が行動を起こして良いのだろうか?と、物語に慣れきった我々(と言うか私)は本作の途中で疑問を抱く。しかし、帆高と陽菜が世界を変えて以降のシーンを観た我々は、その疑問に再度疑問を抱く。そんなものより、少なくとも本作においては「物語の続き」の方が余程重要なのではないか?、物語と現実世界においては、時間の矢印を伸ばす方向が逆なのではないか?という疑問である。自分の行動の動機に、自分の来歴や過去の出来事が影響したことなど本当にあるだろうか?それは、他人に自分の人生をそれこそストーリーテリングするときだけ現れる擬制ではないのか?と気付く。本作の本筋とは恐らく関係ない、夏美の就職活動に関する話が、何故複数回に亘って出てくるのか、はここに関わっていると思う。自他の人生のストーリーテリングに慣らされた我々は、「過去」ありきで現在を、そしてその直線上の見えるはずのない未来を考えてしまっている。でも本当は、過去を語らぬまま現在を走り抜けていく帆高と陽菜のように、現在を積み重ねていくことしか未来に至ることは出来ない。これは極めて現代的な感性であると思うし、こうした感性を物語の中に巧みに埋め込んでいく手法は新海監督の技量と言える。

 

<過去作品から見て>
本作は特に『雲の向こう、約束の場所』との関連が強いと思われる。
ヒロインと世界の存亡が密接に関わっている作品として『雲の向こう』があり(「雲」つながりなんすね)、『雲の向こう』では、主人公はヒロインとの約束を果たし、彼女自身と世界を救う代わりに、彼女は主人公への想いを忘れてしまう。ここにおいて社会という概念は一切導入されておらず、また本作の結末とは正反対と言っても良い。本作において、「約束の場所」は津軽海峡の向こうの天を衝く高塔ではなく、代々木の古びた低層ビルである。そしてそこに向かうためには、純白の飛行機を駆るのではなく、水没した線路を衆人環視のなか恥を晒しつつ歩くほかなく、この点は、それぞれの主人公が、物語の外側を引き受ける覚悟があるか否かを、端的に表していると思う。
また、過去の他の作品と比較して、「世界」の指す内容がより具体的になっている印象を受けた。本作冒頭のモノローグで言及される「世界の秘密」は、『秒速』において遠野貴樹がロケットに託した「世界の秘密」とも、『言の葉』で秋月孝雄が雪野百香里に夢見た「世界の秘密」ともきっと異なっている。本作の「世界」とはまさに、彼らがいま生きているその場所のことであって、宇宙の彼方や女性のような未知に溢れた対象の中、「ここではないどこか」には存在しない。これは、作品としての問題意識が社会を捉え始め、終わりのある物語に留まるつもりがないことと関係していると考えられる。

 

<まとめ>
過去作とは違う。内省を繰り返し、未知の中に世界の秘密を捜し、自己憐憫に浸ることはもうない。
過去作と同じである。君と僕との関係なくして、世界を語ることはできないし、世界を語らずして、君と僕との関係はありえない。
新海監督はたぶんもう生まれ変わってしまった。もはや現代を生きる者としての使命を帯びている。
『天気の子』は、一言で言えば、これまでの新海監督作品として観なければ満点、そうでなければもう終わりです。

 

<雑駁な感想+パンフ読んだ後の追記>

  • ぶっちゃけ一番好きなシーンはラブホでプロポーズする→「神様何も足さないで、何も引かないで下さい」のところ。働くとか、一緒にいるとか、出来る訳ない癖に、でも二人ともそれを分かって言ってるところが、これまで散々見せられた帆高のダメっぷりと相俟ってすごく切ない気持ちになった。ちなみに次に好きなのは、連行中の「鑑定医、要りますか?」
  • 陽菜の首に付いていた、雫の形をしたチョーカーが、空から落ちてきた後に外れてたのがいい。結局天気の力は彼女にとって呪縛であって、帆高もそれを解いてあげたいと思ったのでしょう。空から落ちる二人を繋ぎ止めるために、帆高が付けてた手錠を敢えて使わなかったことと併せて考えるとエモい。
  • 音楽と映像は素晴らしいのが所与なので言及してない。でもすげえよかった。歌詞もよく作品とリンクしてますね。
  • 陽菜の表情がカット毎に全然違って、あどけなく見えたり大人びて見えたりするの、良いと思います。あと「そっか」「君ィ?」「ねぎねぎ~」等のちょっとした台詞が好き。
  • 最近観た『さらざんまい』と被る部分があって面白かった。例えば自己犠牲の否定とか、東京タワーとスカイツリーの対比(から来る五輪前の記憶保存の欲求)とか。やっぱりそういう時代感覚ってあるんでしょうかね?ちょっと強引か。
  • 須賀さんが42歳ってのは意外。30チョイかと思ってた。新海監督は須賀さんに自己移入してたんでしょうかね。大人として良識的に振る舞わないといけないし、社会の言い分もよくよく分かるけど、真っ直ぐに走り抜ける少年少女の側に立っていたい的な。ってか須賀さんってなんで神津島いたの?ってか須賀さんなんで雨水溜まってるのに窓開けたの?
  • 本田翼さんの演技にあんまり違和感なかった。たぶん素であんな感じなんでしょう。
  • 2回目観た後にパンフ読んだら大体似たようなことが書いてあって安心した。後で追記するかも。一点、「貧困」の部分は見落としだった。そこまで考えてらっしゃるんですね……
  • あんなことがあっても帆高を東京の大学に出してやった彼の両親は人格者。じゃあなんで家出したんや(ちゃんとした良心的な親が息苦しいというのはわかる)。
  • 瀧くんの出てき方がZガンダムアムロっぽかった(伝われ)。
  • 綾音と花菜を侍らせ太郎強すぎる。一推し声優の市之瀬加那さんが出ていて嬉しい。
  • バーニラバニラは狂った世界の象徴。