自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

11/12/2019: 纏まった文章を書く気力がない

  • 纏まった文章を書く気力がない。何かに触れた時の自分の心の動きや考えも、あちらこちらに散らばってしまい、かつ、何とか拾って見えるものに落としてみても自分として特に面白く感じるものはない。書いてみるが行方不明になって消すことの繰り返し。こうして脳が衰えていくのかな。いや心か。何が作用してこうなったのか、月並みだが切実さがなくなったのか。切実さそのものの効用はまだ証明できていない。

 

  • 得てして板挟みになる。「こうしたい」という人がいて、「ああしたい」という人がいて、どっちも合っているし、どっちも間違っている。当然だ。俺にも「したい」は一応あって、でも「こう」と「ああ」を薙ぎ払う膂力はそこにはない。あと、心が弱いからだろう、一番早く物事が閉じる道に誘惑されてしまう。結局俺の「したい」はそこなのか。悲しくなるね。物事が閉じてしまえばもう俺のやることはない。「やることをなくすことをしたい」、70%くらい翻訳調。

 

  • 人生も早く閉じてしまいたいと感じている。しかしこれは周期的なものであることすらもわかっていて、現存在からの後退が激しい。薬で精神を持ち直した経験があると、人間は血で充たされた袋に過ぎないことが分かってくると誰かが言っていた。踊るカタカナに踊らされる血の袋に名付けられた、精神というそれがそこにある。あることは確かであって、それ以上でも以下でもない。

 

  • それはそれとして、そういう理由もあって、最近は意識のある時間を少しでも短くしようとして、できるだけ長く眠ろうと努めている(社会人が9時間睡眠だぜ?マジヤバいよな)。そんな理由があるものかと我ながら思うが、ポピュラーなところではポピュラーなんだろうし、そうでないところでは全くそうではないのだろう。……何だってそうか。考えること、思うこと、感じることの負荷にだんだん耐えられなくなってきているのかもしれない。では何が?何が耐えていないのか?何を考えていたのか?

 

  • むかしやっていたスポーツでは、大げさに言えば生命の危機が目前にあったのでその間は意識をなくしていられた。思えばずっとこうしていたのかもしれない。山を登るとき、多くの局面で神経はすべて目の前の危険を克服することに向けられる。そうでないときは、疲れて何も考えられないか、世界の本当の姿に目を奪われているかだ。かつて意識を失うまで酒を飲んでいたという上司よりかは健康的。その上司と行ったガールズバーにいた、自称21歳のガールもまた、酒を飲んで意識を失うと言っていたが、各位はもっと身体を大事にしてほしい。ストロング系チューハイが厚労省に規制されるまであとXX年。

 

  • 社用で外に出た時に、如何にも自分で金を稼いでいなさそうな人間が洒落込んだ店でランチを食べていたり、帝国劇場の前で列をなして喚いているのを見るたび、なんだかんだ自分は労働教に侵されているなと自覚する。追いかけていた案件を一つ仕上げ、チームで豪勢なランチを摂りに行ったとき、互いを労う我々の隣席では、配偶者や小組織の構成員に対する主観的な罵りをターン制で投げ込みあっていると思しき2人組がいた。記憶の大半はそのとき食べたフカヒレスープに支配されているのでまだよかった。

 

  • ゴシップ、ゴシップ、ゴシップ、大嫌いだ。俺と関わりのない誰がどうしたかなど知ったことではない。少しズレるけれど、オフラインでの人物評価という行為そのものが不可避的に孕んでいる窮屈さ(要するにダサいってこと)はできるだけ味わいたくない。という雰囲気を醸し出しているせいか、何にしたって俺はいつも最後尾を周回遅れで走っている。あるいは話しても仕方ない人間だと思われているのか。世界ではそんな俺にはお構いなしに大女優が出版界に潤いを与えている。これも大物の大物たる所以か。

 

  • そろそろどこか遠くに行くらしい。ちょうど遠くに行きたいと思っていたので僥倖だ。「どこか遠くへ逃げたら楽になるのかな そんなわけないよね どこにいたって私は私なんだから」と宇多田ヒカルは歌っていた。どうでもいいけど宇多田ヒカルの書く歌詞の変遷を追ってみると結構面白い。でも変わろうと思えば人は変わっていけると、これはまだ信じている。