自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

06/04/2021: 編集と切断 生存のための繰り返し

現実、という言葉をどのように理解するか。人間がこの世の全てをありのままに把握することはできない。その間には避けようのない器官があり、それぞれの歴史があり、波長があり、時間がある。差し当たりそれを、この世のありのままとしたところで、現実を見るとはどういうことなのか。あるとすれば、世界に適切な編集を加えて、それを損なわない形で、ひとつの主体として理解するということだろう。しかし困難なことに、その適切さというものには何の手掛かりもない。無理に裏付けるとすれば、周囲の人間、あるいは環境、その他との連関の中で朧げに析出されていくものなのだろうが、その選び取り方はどのような手段を取ったとしても偏っていると言わざるを得ない。そして、しばしば存在する因果な人間たちは、その編集の結果として、わざわざ解決不能な問いばかりをこの豊穣な世界から浮かび上がらせてしまい、その不可能さをひとつの理由として本質と名付けてしまう。そうであっても、この選択は、先に問題にした現実の一つのあり方であることに間違いはなく、現実が現実として存在し続ける以上、どこかでひとりでに消えるものでもなければ、この世でたった一人が見続ける孤独な夢に近いものでもないはずだ。

ここで最初に立ち返って、誰かが、例えば誰でもいいが、私が現実を見るとしたうえで、そこで生きるためには、各自の、まずは私の、世界の編集の仕方、更に言えば、その切り取った窓の中に座るあなたのそれにも、矛盾を来すことなく対応した立ち振る舞いが求められる。現実を見るということと、現実を生きるということは、強く関連してはいるが、複数の編集が併存するという点で大きく異なるものである。善く生きるということは、抽象的な表現に頼ってしまえば、世界を適切に編集し、その中でそれに応じた立ち振る舞いを全うすること、この二段構えであると部分的に言い換えることもできよう。ところで、善く生きる必要がないというのならばそれでも構わないし、私はそうした立場を支持できる。一方で、それを放棄した場合に我々の立ち振る舞いを規定するものは何になるのであろうか。それは具体性が高まるほどに柔軟性を欠き、抽象性が上がるほどに頼りないものとなる。具体的対象の中に抽象的な何かを見出すとしても、その両方の危うさを兼ね備えてしまうというのが、残念ながらやがて訪れる結末だろう。ただ、その脆さがゆえにそこに一つの尊さが存在することを私は否定しない。他方、善く生きようとすることは、その多義性と曖昧さの帰結として、常に決断を要求する。これは先程の二段構えの言い換えである。決断を要求され続けることは、一面としては過酷なことであるが、その結末を置いておくとしても、あなたがあなたであること、私が私であることの何よりの証拠となる。私はこの意味でこれ以上の証拠となるものを、他には知らない。裏を返せば、別にそんな証拠は不要です、ということであれば、私個人としては、善く生きることによる効用は然程ない、と言うより、別の何かにあなたを規定させた方が、我々が切り取った世界の中での立ち振る舞いは、よりシンプルに、美しく、機能的になるだろう。

さて、仮に我々が善く生きるとして、問題になるのが編集と切断の差異だ。編集の適切さは、(量的にも質的にも)不足すれば混乱と無秩序を生むし、反対に、これが過度に進めば、言い換えれば、現実を見、世界を理解するために必要不可欠な編集がどこかで切断の域に達してしまえば、我々が世界を大きく見誤ることに直結し(何れにせよ、大なり小なり我々は見誤っている。この世の殆どの問題は程度問題だ)、どちらもその帰結として、少なくとも善く生きることは叶わなくなる。繰り返しになるが、これによる効用はあなたがあなたであることの証拠固め以外にはおそらく存在しない。とは言え、多くの場合は、これ以上の実際的な損失が発生するだろう。ここで、我々に対する誘惑は常に切断の方に存在する。混乱と無秩序と同じくらいに、或いはそれ以上に、我々は世界を編集した結果として生じる解決不能な問いに苛まれがちである。苛まれがちというのは、ここでは存在させてしまいがち、というよりは一度存在させてしまうと容易に離れることはできない、程度の意味である。ここで最初の段落で述べたことにようやく戻ってくる。我々はそうしたものを切断すべきなのか、それを切断してもなお善く生きていると言い切れるのか、切断を続けた先にあるものは何か。ここで述べている、問い、は本来の語義と矛盾するようだが、質問や疑問の形を取っていない概念も、それが実存であろうが本質であろうが、含んでいると考えてよい。新たな事物や概念、現象や状況に出会うたび、我々は世界を再編集する必要に迫られ、その中での立ち振る舞いを再考することになる。勿論、これは少なくとも生理的な要求ではないし、立法された試しもないので、本来的にはする必要はないのだが、我々の狭義の生存のためには、これを繰り返すことが様々な理由で求められると私は思う、というより私は信じる。様々、というのは、例えば繰り返し述べているように善く生きることのために、実際的な利益のために、他にはよりシンプルに、世界の正確な把握を推し進めるために、或いはそこやあそこにいる誰かのために、である。編集と切断の境界をさまよい、注意深く足元を睨みながら、日々の二重の繰り返しを進めている。私はまだ、いつしか切断のみを繰り返すようになったその先に何が起こるのかを知らない。私による編集は一体どのような形態なのか、また私がいつ証拠集めに飽きてしまうのかも分からない。これらも最早、私による編集の賜物と言えよう、と自嘲もしたくなる。私が境界だと思っているものをとうに踏み越え、新たなモノに規定されているように見える人々もいる。翻って、私の不格好なそれよりも、随分と洗練されたラインを描いている人々もいる。そんな様子を見て狼狽える私を尻目に、世界は日々、新たな繰り返しを私たちに迫っている。それが見えるのか、見えないのか、見ないのか、見ようとするのか、その切迫だけを以て、現実という困難な言葉を代弁させてしまうのも、それはそれで間違いではないような心持ちが今はする。

アイドルマスターシャイニーカラーズ / noctchill:イベントコミュ: 『天塵』感想(前編)

導入の導入

以下の文章は、2020年7月時点で表題に関して投稿しようとしたものの、上手く纏めることができずにそのままになってしまったものです。このたび、久し振りに本ブログを編集しようとしたらこれが下書きに残っているのを発見し、約17,000文字+スクリーンショット複数が含まれていたため、消去するのも惜しくなったので無責任に放流するものです。

現在ちょうどシャニマスに新しいユニットが登場しているなか、1年弱前に新ユニットとして登場したばかりのノクチルが、その頃どんな感じだったかがなんとなく分かること(と俺がなんかスッキリすること)以外に本稿の意義はありません。

 

導入

 この記事では、enza対応ゲーム「アイドルマスターシャイニーカラーズ」にて、2020年7月10日まで開催されていたイベントである、『天塵』の、イベントコミュの感想を書いています。物語の核心に迫る記述を大いに含むため、未読の方はこの点お含み置き下さい。

 尚、この記事を「前編」と称しているのは、『天塵』のあらすじと、それに沿った感想を記すひと纏まり、という意味においてであり、イベントコミュの内容全体をカバーしていないという意味ではなく、この記事で一旦最後までをカバーします。そして、今後投稿予定の「後編」において、一旦あらすじから離れ、個別のトピックに関して感想を記すことができればと考えています。それでは、本文に入ります。

 

本文

Opening: ハウ・スーン・イズ・ナ→ウ

 『天塵』は、幼少期のノクチルメンバー4人で交わした会話を樋口が回想する場面から始まる。この回想は、各自の台詞で使われている漢字から推測するに、メンバーが小学校2~3年生だった頃の話だろう。浅倉は、夏休み、お盆が終わるまで、自分が祖父母の家に滞在することを寂しがるほか3人に対し、自分たち4人でお金を貯めて買う車で「みんなでりょこう行こう」と提案する。視点は現在に戻り、プロデューサー(以下「P」)は、仕事終わりに車で樋口を彼女の家まで送る場面に移る。Pは、明日も急なミーティングが入ると樋口に告げ、「害はない、とてもいい話」であること以外にその議題は明かさないが、それがノクチルの初仕事の件であることを、彼に伝えないまでも樋口は看破する。彼女はPと別れた後、喜びを隠しきれない彼の不器用さに嘆息するとともに、再び幼少期の回想に戻る。自身の提案に対しどこに旅行するのかと3人に問われた浅倉は、逡巡したのち、「海にしよう」と答える。ここで回想は終わり、樋口は一人、「どこ行くの 私たち―——」と誰に問うでもなく呟く。

 回想シーンから、現在のノクチルの4人の性格やユニット内での立ち位置は、幼少期から大きくは変わっていないことが分かる。感覚的な発言でありながら、それによって中心となり皆を引っ張っていく浅倉、聡明で慎重な樋口、心配性な一方で未知に心を踊らせる福丸、楽しいことを何よりも大事にする市川。しかしながら、お互いの呼び方は、福丸からのそれを除いて現在のものとは異なる(この点は後編で詳細に追ってみたい)。ちょうど自分も浅倉に関する回想をしていたところに、Pが浅倉を話題に出して樋口が露骨に不機嫌になる辺りは、W.I.N.G. 編で再三描かれてきた、Pに自分の内面に踏み込まれたという認識から来る嫌悪感であろう(Pからすれば、今回はとんだとばっちりであるが)。このオープニングでは、いよいよ初仕事が決まり、ノクチルの4人を取り巻く環境と、その関係性が変わっていくことに対する、樋口の不安が描かれている。樋口の問わず語りは、3人を導く浅倉と、彼女自身に対する問いであり、このコミュを通じた主題でもある。

 少し話題が逸れて元ネタ話となってしまうが、タイトルの『ハウ・スーン・イズ・ナ→ウ』は、The Smiths の "How Soon Is Now?" が由来と思われる。

 

www.youtube.com

 

ノクチルに引き付けてこの曲をとらえるならば、歌詞の以下の部分が、

When you say it's gonna happen "now"

Well when exactly do you mean? 

彼女らのデビュー曲である 『いつだって僕らは』冒頭、

きっと 夢は叶うよなんて 誰かが言ってたけど

その夢はどこで 僕を待ってるの

に呼応していると感じた。何れも、自分たちが望むものが、いつ・どのようにやって来るのかを問うているが、Smiths の方は歌詞全体を読むと非常に悲観的なトーンである一方で、『いつだって僕らは』では自ら踏み出していく歌詞が続き、彼女らの不安と昂ぶりを端的に表している。"Now" の間に「→」を入れているのは、現在進行形で変わりつつある・望むものに近付こうとしている彼女ら自身を示唆するとともに、Smiths を題に取りながらも、待ち続ける彼らとの違いを意識しているのだろう。

 

第1話: 屋上

 ダンスの振りのテストを翌日に控えるなか、樋口と福丸は283プロの屋上で振りの練習をする。この二人ほどには練習している様子も見られない浅倉と市川も遅れてやって来るが、入れ替わるように福丸はPに呼び出される。このとき、福丸は浅倉のダンスを目にし、その美しさに感嘆する。

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屋上での練習風景。樋口と福丸が二人でダンスを練習している様子を想像するととても愛おしい。

この後しばらく私は、暇さえあれば「てってん、てててん」と一人呟く怪人と化した。

 浅倉のダンスを見たこともあり、自分と周りを比較するような発言が目立つ福丸に対して、樋口は「小糸も踊れたでしょ」とシンプルな肯定を返す。これに気をよくしたのか、福丸は「これくらい当然」と言い、初仕事に向けた意気込みを見せる。福丸の意気込み、言い換えれば初仕事への期待を感じた樋口は、「浅倉が騙されているのではないか」と訝しみ283プロを訪れた日のことを思い出す。*1。一方で、樋口がこの時点で遡及的に、自分の幼馴染たちが、特に期待に胸を膨らませている福丸が騙されているのではないか、と懸念していることは間違いない。さて、その懸念をおくびにも出さず、樋口は福丸を褒めてやり飴を渡すが、ここでは「今日はね」と前置きした福丸からも飴を渡され、穏やかな声色でありがとうと返す。これは樋口が自主練後の福丸にお菓子をあげる、sR樋口の第2話からの微妙な変化であり、今回のイベント報酬となっている【游魚】sSSR樋口の第1話でもクローズアップして描かれている。

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「すーっとしないやつ……!」という表現が福丸らしくて良い。

妄想ながら、きっと幼少期の樋口は薄荷味の飴が苦手だったのだろう。それを覚えている・引きずっている福丸のいじらしさと言ったらない。樋口もとうの昔に味の好き嫌いなぞ克服しただろうに、特に何も言わないというな。

 その頃、屋上では浅倉と市川が、初仕事の後にどんな仕事が待っているか、樋口に言わせれば「中身ゼロ」と評するであろう会話を繰り広げるが、「遠くに行く」という話題になったタイミングで、泡の音の効果音が入り、光る水面の背景に切り替わる。これは恐らく、幼少期に交わした「4人で買った車で海へ行く」という約束を、市川が意識しながら浅倉と会話していることの示唆と考えられる。最終話と、【游魚】第3話で判明する通り、市川はこの約束を克明に覚えており、1万円を貯金してすらいる。この約束が、そして浅倉の存在が、市川にとって如何に大きなものであるかが伺え、なかなか核心を見せない市川の内面が見え隠れする貴重なシーンである。

 夕暮れ、福丸は夕食までの時間を使って走り込みを行うが「みんな、すごいな……」と自分を追い込んでいく。また、浅倉のダンスに刺激を受けたと思しき樋口も、事務所に居残って自主練に勤しむ。帰り際にPと会った(会うように企てた?)樋口は、初仕事 ——「視聴者数が売りなだけ」な生配信番組への出演—— に対する疑問をPにぶつける。この樋口の疑問において最も重要なのは、この初仕事にしては大きすぎる案件が、浅倉個人が制作陣から注目を受けて取ってきたものなのか否かを質す点である。樋口は、のちに第3話で描かれる通り、浅倉が個人として注目されるようなことを浅倉自身が望んでいないこと(またこれに類する内容が【途方もない午後】pSSR浅倉でも、浅倉本人の口から語られている)を知っており、一方で、浅倉が他者からそのような視線を受けがちであることを樋口として認識しているために、Pが浅倉のことを正しく理解できているのか、また期待に胸を膨らませている福丸を失望させるような結末にならないのかを確認したかった、という背景があると考えたい。もしそうであれば、ここにおいて樋口は、仕事の内容や成否よりも、幼馴染2人の心情を想って単独で行動していることが伺え、彼女の思慮深さに感じ入らざるを得ない。そんな樋口に対して、本件はノクチルのメンバーにとって重要な経験となり、浅倉個人がどうという話ではなく、4人のパフォーマンスに視聴者がどう反応するか謙虚に受け止めてほしいと、Pは実直に答える。この背景には、ややマイペースな傾向がある彼女たちに、高いハードルを越えようとすることで、自分たちを見直す機会をなるべく自然な形で提供したいというPなりの親心があるのだろうし、恐らくそういう観点で仕事を選んできたとも考えられる*2。これを受けて樋口は、Pが意外にも自分たちのことを理解し・考えていることを看取し、想定外と感じたのか(Pの発言の合間に入る樋口のひと呼吸は、やや面食らったリアクションのように私には聞こえた)、試される場に出ることになる自分たちを指して「売り物」というやや強い言葉を使い、話題を微妙にズラしにかかる。樋口の想定通り、Pはこの発言に対して狼狽を見せる。「売り物」発言の後に、樋口以外の3人を映すワンカットが回想的に入るが、ここの解釈は少し難しい。私としての1つ目の解釈は、Pの脳裏にこの3人が浮かび、樋口が彼女らのことを指して「売り物」などと発言するのは恐らく本心ではなく、面食らうとともに何か別の意図があるのではないかと思いを巡らしていること、2つ目は、この3人は樋口目線で思い起こされており、この仕事が、「売り物」と定義された自分たちの関係に不可逆な影響を与える危険性に不安を抱いていること、なのだが、この直後に初仕事で何かあったら許さないとPに迫る際、福丸一人のカットが入り、福丸の心が傷付くような事態を何としても避けたいという樋口の懸念が明確に示されることから、1つ目の解釈が妥当かもしれない。

 翌日、ダンスの振りのテストが予定通り行われ、4人とも無事に合格とトレーナーに告げられるが、「誰とは言わないが」息が上がっているメンバーがいるとの指摘を受け、福丸は面前で反省する(この直前のボイスで、福丸の息だけが上がっている演出が細かくて非常に良い。て言うか4人しかいないんだし、そんな意地の悪い言い方せんでも良くない?)。この後、市川も息が上がっていることを、浅倉は平たく言えば手を抜いていることをトレーナーに指摘される。唯一何の指摘も受けなかった樋口は、周囲を気にしながら一人ダンスルームを後にする。この一幕は、各メンバーの性格を上手く表していて興味深い。市川は、トレーナーが名指ししていないことを福丸に指摘するが、これは、特定できる形で言われてもいないのにわざわざ自分の非を認めたり、気に病んだりする必要はない、その必要があるのならば名指しをするはずであるというある種合理的な考え方(第5話に出てくる、インターネットでのノクチルの評判に関する雛菜の態度もこれと同根かもしれない)の表れであり、その後自分が指摘を受けた際にはあっけらかんと「雛菜だった~」と言い放つのも、「雛菜『も』」と言わない優しさ、この段階で息が切れていることを気にする必要はないと、福丸に向けて態度で示す配慮、なのだろうかと感じた(市川はこの辺り、素でやってるのか狙ってやっているのか分かりにくい微妙なラインを突いてくるし、それこそが市川の美点なので受け取り方が極めて難しい……)。浅倉は浅倉で要領勝負なところをしっかり見抜かれているし、他者の前で完璧を装う樋口は、一人になった後に深く息をついている。

 練習後、浅倉はPと二人になるタイミングを見計らい、Pに視線を投げる。樋口はダンスルームに戻ろうとするが、Pと浅倉の会話が始まっており、なかなか室内に入ることができない様子を見せる。二人の他愛ない会話をドア越しに聞きながら樋口は幾度となく溜息をつき、「透は、走り出してしまった」と呟くところで、オープニングと対応するように第1話が終了する。この辺りは少々説明が飛んでいるように見受けられる部分もあるので、幾つか疑問が湧いてくる。まず、ここで樋口が室内に入ることができなかった理由は何だろうか? 一つありうるのは、浅倉がアイドルになろうと思った理由をここで樋口が聞こうとしていたということ。sR樋口の第1話で、樋口は浅倉にこの件を聞きそびれており、二人になる機会を窺っていたが、今回Pが差し入れを持ち込んだことによりそれが不首尾に終わったためと考えられる。では、そのあとに何度も溜息をついていたのは? これは、親しげにPと話す浅倉の様子をドア越しに感じ取り、浅倉がアイドルになった理由にPが大いに関わっているのではないかという、樋口にしてみれば認めたくない疑念が徐々に確信に変わっていったこと、また自分が突然二人の間に入って、樋口自身が浅倉にとって、大袈裟に言えば、樋口と浅倉、二人の関係の中で、今までそんなことは決してなかった「邪魔者」になってしまうのでないかという恐怖を覚えていたこと、が理由ではないか。ここにおいて、樋口は浅倉の微妙だが不可逆な変化を認識し、「走り出してしまった」というやや唐突にも聞こえるモノローグを発するに至る。

 第1話は、要約すれば、樋口の視点から福丸と浅倉の微妙な変化を捉え、一方で昔と変わらずに、幼馴染のことを異なるアプローチで想い続ける樋口と市川が対照的に描かれている。この構図は、『天塵』を通じて繰り返し現れるテーマでもある。

 

第2話: 視界1

 市川のクラスの授業風景から第2話は始まり、科目は恐らく現代社会(いまもそれで合ってる?)、池田内閣の所得倍増計画を経て人々のライフスタイルが様変わりしたことを教師が説いている。体育の授業のソフトボールで活躍する浅倉を窓越しに眺めていると、案の定、市川は教師から「大事なところだからちゃんと聞くように」と注意を受ける。その返しが以下。市川の煽り力が極めて高い。

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意地の悪い言い方だが、これに対しそうだと返す教師がいる高校は、さほどレベルが高くないと思わされる。ただ、教師の方も一拍置いてから市川の問いに答えていることから、本当はそうではないと理解しつつも、結論先行の市川に対して論を構えても仕方ないと踏んでの回答かもしれない。真面目に池田内閣の位置付け語ってもねぇ。

 さて、授業内容がわざわざ作中で言及されているということは、かの名作の「互いに素」を引くまでもなく、そこに何らかの意味があるはずである(そうでなければ、「で、あるからして~」のような表現に留めるか、数学や歴史のような睡眠導入科目が出てくると相場が決まっている*3)。考えられるのは2つ。所得倍増計画を通じて日本人の価値観、生活スタイルが一変したことを、ノクチルのメンバーの変化に準えたもの。経済発展はすなわち(浅倉が繰り返し述べている)「のぼっていく」こと、という連想で、発展とともに価値観・関係性が変わっていくことの比喩、また市川がその変化に少なくとも明確に肯定的というわけではないことの示唆。2つ目は、ノクチルというユニットよりはむしろ、市川個人に焦点を当てた解釈であり、発展していくことや成長していくことを、GNPや目に見える努力といった、単線的な物差しで測る価値観、市川のそれとは相容れない価値観を、彼女が一蹴していることを表しているという見方。これは、ともすればアイドルマスターが掲げてきた「努力による成長・変化」という物語に対するアンチテーゼとも取れる(確信が持てないのでこれ以上の言及は避ける)。個人的には後者の方が解釈としては面白いとは思う。ちなみに、浅倉がランナーとしてソフトボールをやっている理由はよくわからない。

 授業が終わり、市川は福丸に教科書を返しに行く(コイツは置き勉すらしないんだな?)。廊下でもダンスの復習をする福丸に対し、市川は「楽しい?」と率直な疑問を投げかける。福丸は「う、うん」と答え(表情からは本心で楽しいと思っているように見えるが、声色からは少し戸惑っているように感じた。恐らく福丸の心の中にも相反する思いが渦巻いているのだろう)、返す刀ですかさず、本番が近いのだから練習しなければ、と市川に注意するが、既に用件は済んだとも言いたげな市川は、はぐらかしてその場を後にする。一人残された福丸は、市川と浅倉を思い浮かべたうえで「雛菜ちゃんはそれでいいかもしれないけど……」と不安げに漏らす。ここの「それでいい」については、楽しいかどうかで物事を判断することでいい、というのと、必死に練習しなくてもいい、という2つの意味合いだろう。何れも福丸にはない価値観である。後半の「必死に練習しなくてもいい」とは、この段階において既にダンスのテストに合格し、少なくとも体力面での課題は市川と同列にあることから、二人の間にある差異の方向性としては、技量の面もあるだろうが、それよりはむしろ、練習量が少なくても不安を覚えないという精神的な側面が強いのかと思う(練習している間は不安が和らぐという福丸の発言が後半で出てくるというのもあり)。

 場面が変わり、樋口がランニングをしているシーン。「このくらい、余裕」という独り言は、福丸の口癖が移ったのか(アイドルを始める以前で彼女らがそういう発言をする局面はあまり思い浮かばない)、二人の精神性は、外に出す出さないは別としてこの観点では似通っているのか、というところだろう。ただ、福丸の「余裕(よゆー)」は、周囲に自分がいっぱいいっぱいであることを悟られないため(言うまでもなく、それによって悟られるのだが)である一方で、樋口の「余裕」は自らを奮い立たせるため、自分に対してのみ使っているように見受けられ、少なくともこの段階では、彼女らの用法は大きく異なる。「余裕」と言うとき、樋口が思い浮かべるのは浅倉であり、彼女への対抗意識(この論点は第5話で詳述する)もまた、樋口を奮い立たせている。福丸も同様に自主練習に励むが、その途中で幼少期の約束を、海に行くとしたところまで思い出すとともに、夜に一人、河原で練習している自分をふと客観的に見つめ、既に自分の生活が変わり始めていることを再認識し、少しの強迫観念を抱きつつも練習を続ける(ここのメトロノームが変わった音でなんか面白い)。この場面で市川が一瞬練習中の福丸を発見するがすぐに見失う。福丸のプロデュースイベントや、第5話での樋口との会話を踏まえると、練習していることが市川にバレないように隠れたのだろう。

 翌日、練習の甲斐もあってか、トレーナーからは各自のダンスに対して上々の評価を得、福丸の息も上がっていなかった。これをきちんと見ていたのか、樋口は福丸をこれまたシンプルに褒め、福丸は喜ぶ(素直でホンマにかわいい……)。他方ここで浅倉は「かっこいいじゃん、私たち」とメンバーに伝え、福丸は半ば信仰にも似た反応を返す。曰く、「透ちゃんがかっこいいって言ったら それはもう、かっこいい」と。また、浅倉の言う『私たち』の中に自分がいることに感動を覚えている。これはある意味、樋口にとっては皮肉である。樋口は誰よりも福丸のことを見ていて、何かができたときにはしっかり褒めてやり、辛そうなときには手を差し伸べている。しかし、浅倉ほどには言葉の力、福丸に対する影響力を持てていない。これは恐らく、樋口の性格にも起因しており、彼女の褒め方は、具体的な出来事に基づき、極力客観的な視点でなされる(これは生配信出演後の、樋口の福丸に対するフォローで顕著である)からである。これはもちろん、そうでなければ彼女が毛嫌いするあのミスター・好青年と同じで、根拠のない、上辺だけの言葉になってしまうと思っているためだ(じゃあ何で樋口はそういう言葉が嫌いなのか、という点については後編で考えてみたい)。対照的に、浅倉の言葉は正直言って何の根拠もない、感覚的なものであるが、だからこそ樋口と似通った精神性を持つ福丸に対しては響く。福丸の視点では、自分が(自分でも)やった・できたことや、考えてみてばわかることで褒められても、彼女の感動には至らない。この一幕で樋口がちょっとつまらなそうにしているのはその辺りを反映していると読むと面白い。浅倉の「かっこいい」発言を契機として、浅倉が3人に強い影響を与え、引っ張っていくという揺るぎない関係性が浮き彫りとなっていき、福丸が「置いて行かれないように走り出す」ことが決定的となる。

 第2話では、浅倉が他の3人に与える影響の強さと、福丸がアイドルとして活動することにどのような不安を抱いており、またそれを唯一解消できる浅倉に、彼女が如何に心酔しているか、「走り出す」動機たりうるかが語られる一方で、樋口が浅倉に対して抱いている屈託の片鱗が顔を覗かせている。

 

第3話: アンプラグド

 「アンプラグド」とは、Un-Plugged, すなわち電力を使用しない音楽演奏のことを指し、要するに生音での演奏を意味しているらしい。

 初仕事の収録のためスタジオに訪れたノクチルの4人とP。新鮮な光景に浅倉と市川ははしゃぐが、感じの悪いスタッフと廊下で鉢合わせ、邪魔だと言われた上に、彼女らが楽屋に挨拶に行っても邪険に扱われてしまう。

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ドン引きする浅倉。しかしながら、この業界人のリアリティある描写である(とか言って、私は芸能界のことなんも知らんので、リアリティも何もないが)。「タイのロケ」の意味するところを彼女らは知らない……のだろうか?

余談だが、アンティーカがこの一幕で盛んに言及されており、283プロの対外的な顔は彼女らであることが伺える。ってか、このDが「アンティーカちゃん」って言うのクソウザくないっすか?「さん」を付けろよ。

 楽屋のやり取りのあとは、福丸の不安が高まっている描写が執拗に繰り返され、BGMも減っていくので、場面としての緊迫感が徐々に増していく。福丸は、浅倉の「かっこいいじゃん」を反芻するが、ここにおいては重荷に感じてしまっている。浅倉の「かっこいい『私たち』」であり続けなければならないことに対するプレッシャーでもあるだろう。当然、樋口がこの状況を見逃すはずがなく、福丸を気にかけてはいるが、先述の理由もあるのか、掛けるべき言葉が見つからないまま。そんな中、事前の約束とは異なり、口パクでのパフォーマンスとなることが制作陣からさも当然であるかのように伝えられ、しかも福丸が緊張で固くなっていることを指摘されてしまう(ここで樋口はマジでキレてる。俺にはわかる。こえ~~~)。落胆する福丸をよそに、ディレクターは浅倉中心で番組を回すことを指示する。楽屋に戻った福丸は自責の念に駆られ、樋口は初めから案件を握れていなかったのだとフォローするが、ショックを受けた福丸の心には届かない。この辺りから、本当に古典的な手法ながら、多くのプレイヤーは、「福丸! 頼むから無事に収録を終えてくれ!!」という心情に上手いこと誘導されてしまっている。

 番組が始まり、ディレクターの指示通り、浅倉を中心に番組が回っていく。浅倉個人の話に終始するなか、メンバー紹介を切り出そうとした浅倉を、MCは「浅倉クンとそのお友達」という表現で遮る。これを聞いた浅倉は露骨に嫌悪感を見せるが、「友達の絆、見せてもらいましょー」と茶化され、口パクライブのために一旦舞台袖に掃ける。舞台袖、「友達の絆」を見せるのは、「いつも通り」にやればいいことであり、簡単だと言い放つ浅倉。浅倉の企てに真っ先にピンと来たのは樋口であり、次に市川が浅倉の意図を理解する。最後まで腑に落ちていない福丸に対し、浅倉は「練習してきたのは口パクではない」「頼んだ」といつも通りの口調で告げる。その後の顛末は市川のモノローグで語られる。浅倉は曲を歌わず、樋口は笑顔を一切見せず(市川はなんか適当にやってたのか?)、自然、カメラは一番真っ当にパフォーマンスを見せる福丸に集中する、これが私たちのいつも通り、という結末。「———雛菜、透先輩すきだな~……」という台詞で第3話が終わる。ここで浅倉が外面としては穏やかでありながら怒りを覚え、仕返しを試みるに至ったのは、浅倉が自分個人ではなく、ノクチルの大切な4人としてここにいることを重んじていることの表れだと思う。

 第3話は、爽快感とノクチルらしさに溢れている、『天塵』の核となる回である。タイトルの「アンプラグド」はまさに、彼女たちの生音、ありのままを見せつけること。追い詰められていた福丸がそれでも練習の成果を存分に発揮し、それこそが彼女ら全員が思う「いつも通り」であることに、しつこく不安を煽ってきた第3話の演出と、コミュを通して長らく(福丸を気に掛け続ける)樋口の視点を使ってきた効果も相俟って、安堵と喜びに満ちた読後感が訪れる。何より爽快なのは、ノクチルが「対等に」制作陣と戦ったという事実である。本物のライブをし、台本通りのトークをするという「約束」を反故にした制作陣(ライブ用の準備をしていないのだから当然故意であり、台本が事前に渡されているのだから、トークの内容も初めから引っ繰り返すつもりでいたのだろう)に対しては、彼らの「お約束」を守ってやる義理はなく、「友達の絆」を見せろと言われたので、お望み通りにお前らに見せてやったという、正々堂々、真正面から戦った結果がそこにある。当然、アイドルなのだから番組の意図に従うべき、有り体に言えば、仕事を貰っているのだから発注元の言うとおりにしろ、というのがいわゆる常識だ。しかし、そんなものは、「自分がどう思うか」を失った、下らんサラリーマンの(芸能人は自営業的だから「大人の」か)世界での常識でしかなく、お互いが対等な立場だったらこうなるぜ? と知らしめたということだ。これは、詳細は省くが、283プロの他のユニットとは一線を画す戦い方であろう。特に、アイドルの偶像性(進次郎構文)を徹底的に内面化し、仮面 ――彼女らの語彙で言えば「迷光」—— を纏って不条理との戦いの場に臨むストレイライトとは好対照と言える*4。良くも悪くも、283プロのユニットは、不条理に対して自分たちのできること、納得の行く道を探していこう、という解決策を取るという、言葉を選ばなければ「聞き分けのよい」傾向にあったが、ここに来て「いや、そもそもおかしくないか?」と一石を投じ、完璧なまでに敗れ去っていく姿勢は、ありきたりな言い方だが、アイドルというよりもバンド的な色彩が強いユニットとの位置付けなのだろう。自分たちのありのままを見せつけ、みんなの車で旅行に出かけて、曲もバンドサウンドThe Smiths からタイトルを拝借し、メンバーも、一見相性が良くなさそうなエッジの立った4人、と要素に事欠かない。

 最後の台詞である「———雛菜、透先輩すきだな~……」からは、市川が本気で浅倉のことが好きで、しかもその「すき」の対象は、不特定多数が注目する彼女の外見ではなく、幼馴染のため、為すべきときに事を為し、皆を導くことのできる浅倉の内面にあることが分かる。恐らく、浅倉は市川の想いの強さには気付いていない一方で、彼女が自分の内面を見て傍にいてくれていることをそれとなく感じており、だからこそ市川と共にいることに心地よさを覚えているのだろう。浅倉さんは今後、市川さんのこの期待に応えていかないといけないという意味で、これは結構大変なことですよ。

 

第4話: 視界2

 生配信の騒動を経て、ノクチルはインターネット上で批判を浴びるとともに、仕事を失っていた。夏休み、補講を控えた浅倉と樋口は、283プロの屋上で暇を潰す。何気ない会話の中で、浅倉の樋口に対する揺るぎない信頼や、樋口と共にあることを当たり前として受け止めていることが伺えるのが巧み。ここで樋口は浅倉に何かを訊ねようとするが、聞けず仕舞いに終わる。恐らくその内容は、ダンス練習の際に聞けなかった、浅倉がアイドルになろうとした理由だろうが、樋口がそれを口に出すことはなかった(この後、浅倉と一緒に補講を受けることを想像したのだろう)。樋口は再び、「騙されている」「どこに行くんだろう 私たち」という問いを発するが、アイドルとしての行先を失った今、最初の問いよりも、無力感を帯びたものになっているように聞こえた。1年生組は個別で練習するが、特に目標がない今、市川は身が入らず(「なんのためでもない練習になった!」という市川の台詞は結構好き。絶妙な力の抜け具合と、練習には明確な目的があるべきという彼女の合理性が伺える)、福丸は仕事がないからこそ練習をしなくてはと主張する。市川は軽い同意を返すのみ。ただ、その同意を受けて福丸は笑顔を見せる。これはこの直後、第5話の冒頭で福丸により回想されるシーンとなる。またこの会話は、第2話の学校での会話とは異なり、市川が(福丸目線では)練習の重要性に同意してくれたことによるものと推察され、福丸としては市川の転換という位置付けになる。

 さて、仕事を失ったノクチルのため、Pは仕事探しに奔走するが、生配信の件を知っている業界人からは悉く断られてしまう。その中で、騒動のことは弁解の余地もないとしつつも、あの本番に輝きを認め、その輝きをどう表現すればいいのかと逡巡する。

 自主練を続ける福丸は、偶然同じくランニング中だった樋口と会う(樋口はあくまでも練習ではなく気分転換だと言い張る)。二人きりであの本番を振り返る中、福丸は、余裕を持てていなかったと正直に樋口に告げ、その福丸の変化を察した樋口は(ここで風が吹く効果音が入るのが明示的)、福丸と話し込むことにする。樋口は、要領の良さに甘えて誤魔化しを入れるような浅倉がカメラに映らなかったことは問題ではなく、むしろ一番「仕事」をしていた福丸がカメラに映ってくれてよかったと伝える。それでも頑として樋口の言葉に納得しない福丸に対して、福丸が一人で一生懸命練習を続けていることを知っていたと告げ、同時にその事実は知られたくなかっただろうとして謝罪の意を述べた。これは期せずして、福丸のプロデュースイベントにおけるPの彼女に対する関わり方と、全く同じであることは注目に値する。第1話の市川と浅倉の会話に続き、2回目の泡の音がここで流れ、核心に迫るシークエンスであることが示唆される。福丸は、みんなと一緒にいたいが故に努力を重ねたと言い、「海に行く約束」を回想する。対して樋口は、仮に努力を重ねなかったとしても、4人は一緒に居られるから心配しなくていいと(福丸もまた、浅倉と同様にどこかへ行きたいと願っていることを知り、半ば自分の願望交じりに)返すが、福丸は浅倉のダンスをまたも思い出し、みんなはすごいから(そうはいかない)と譲らない(ここで「みんな」と言いつつも回想カットで入るのが浅倉だけというのが、福丸にとって、幼馴染の中で浅倉が最も先を行く存在であるということを示唆していると思われる)。福丸の固い意志を感じた樋口は、福丸の吐露に呼応するかのように、自分も心配なのかもしれないと、(それは主に浅倉に対して向けられたものではあるが)珍しく本音を語る。樋口の不安を初めて知った福丸は、練習している間は不安を忘れられるからと、一緒に練習することを持ち掛け(これが福丸なりの優しさである。飴と同じで、自分がされて嬉しいことを、そのまま惜しげもなく他者にも与えようとするのである。最高か?)、樋口はそれに同意し、二人でストレッチを始める。お互いの胸中を明かした、ここの二人の穏やかな笑みが素晴らしい。第4話のラスト、樋口は三度「どこへいくんだろう ねぇ、透――」と問いかける。

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台詞がないために一瞬しか映らない、最高のカット。

お互いの気持ちを伝えることって……大事なんやな……

 第4話では、お互いの不安をお互いに開示しながらも、その軸には浅倉がおり、4人の関係性が変わっていくことに不安を覚える樋口と、自分が置いて行かれてしまうことに不安を覚える福丸との間で、交差する部分、そうでない部分を明らかにした。核心を伝え互いを理解しつつも、本質的な部分での相違が際立つ。先取りになるが、第5話でも、浅倉と市川との間で同様の構図が描かれる。

 

第5話: 視界3

 相変わらず仕事のないノクチルの練習シーン。市川が練習を早々に切り上げ帰ろうとするのを見て、第4話で市川が練習の重要性を肯定したはずだと思っていた福丸は少し面食らうが、樋口が人知れず練習していたことと、浅倉も歌詞を間違えるように決して完璧ではないことを、樋口との会話で知った福丸は、市川にも自分なりの時間の使い方があるのだろうと悟ったのか、追及はしないという変化を見せる(当然、市川はこの後練習するわけではない。ここの解釈ちょっと間違ってるかも)。ここで、樋口は二人の間のミスコミュニケーションに勘付いたのか、溜息を漏らす。

 場面は変わり浅倉の家。練習を切り上げた市川は、浅倉の家で彼女の帰りを待っていた。市川は爪を塗ると言い浅倉の退路を塞いだ後、何故アイドルをやることにしたのか、核心を浅倉に問う。ここで浅倉はPにスカウトされたときのことを回想するが、明確な回答を避けるも、浅倉の変化に勘付いている市川は、Pの存在に切り込み、浅倉はそれを認めた。恐らくノクチルのメンバーにこのことを明示的に伝えたのがこれは初めてと思われる(ここでの浅倉の心の動きが読めないのがもどかしい。隠そうとしたのか、そもそも隠すようなこととは思っていないのか等々。恐らくここは敢えて見せないように描いているのだろうし、市川も、Pが関係していることは確認できて事足れりとしたのか、これ以上の追及は行わなかった)。その後、浅倉はインターネット上で自分たちが、先の生配信の件を受けて「覚悟がない」「アイドルをなめている」と批判されていることに言及するが、市川は、自分は自分のことしかわからない、アイドルの決まりなど知らないと、強固な価値観を覗かせる。そして浅倉は「アイドルがいる人」には、「アイドルの決まり」があるのだろう、と述べる。ここの「いる」には、「居る」という意味で「既に『アイドル』としての固定観念を既に自分の中に持っている人」と、「要る」という意味で「自分の思い描いた通りの『アイドル』を必要とする人」のことが含まれているのだろう(浅倉がそこまで考えて発言したかは相変わらず不明だが)。

 一方、Pはノクチルの仕事を取るために依然営業回りをしていたが、相変わらず芳しくない。尚、ここで浅倉単独の仕事を断り、ユニットとしての仕事を取りに行くPの姿勢から、彼女らをユニットとして世に出すことへのこだわり、彼女らの心境と関係性への配慮が見て取れる。営業を掛ける過程で業界の人間がPに向ける言葉も、詳細には拾わないがほぼ全て正論である。音楽番組ディレクターは、生配信の件を踏まえ「売り物」としての安全性が求められると、Pの懇願を突っぱねる(このディレクターの発言では、「『みせる』技術と『見られる』覚悟」という部分にも注目。アイドルは「見せ」るだけではなく、「魅せ」なければならない、という価値観のこであろうし、前出の浅倉の掛詞「いる」に対応している)。帰り道、Pは樋口の「売り物」発言を反芻し、彼女らを「売る」ことと、彼女らが彼女らであることの狭間で揺れ動く。市川と浅倉の会話と、Pの奔走が入れ違いに挿入され、業界と彼女らの価値観の乖離、仕事探しに骨を折るPに対して、仕事がないこと自体はあまり気にしていないように見える二人の対比が浮き彫りになる。

 自主練を終えた樋口は、浅倉の家を訪れる。ここでは恐らく、補講の前にしそびれた、アイドルの志望理由を浅倉に訊ねることを目的にしていたのだろう。しかし上述の通り、既に手練手管に長けた市川がその件に触れている。更に、騒ぐ二人の声が階下まで聞こえてきたため、樋口はそういった深刻な話をするタイミングではないと判断し、すぐに浅倉家を後にする。

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市川と騒ぐ浅倉。もっとオタクをバカにしてくれ~

 去り際、市川はアイドルは楽しいかと訊く。浅倉は特段様子を変えることもなく楽しいと返し、市川は自分も楽しいので「おそろい」だと笑みを浮かべる。しかしながら、浅倉は、プロデュースイベントで語られている、Pとの再会を通じて思い出した「のぼっていく」感覚による楽しさのためにアイドルとしての活動に励んでいる一方で、市川は浅倉と共にあること自体を楽しさととらえており、その「楽しさ」には明確な定義の違いが横たわる(聡明な市川はそのことに当然気付いているのだろう)。傍論となるが、インターネットで自分たちの批判が展開されていることについて、浅倉はその事実自体を自分の眼では確認していないような口ぶりであった一方、市川は何が書かれているかある程度把握したうえで、論ずるに値しないと切り捨てている、というスタンスの違いもあるだろう。

 

第6話: 海

 冒頭からパンチが効いている。練習後、他の2人に対してと同様に、アイドルは楽しいかと樋口に訊ねる市川に対し、樋口は「……それは雛菜の観点でしょ」とすかさず返す。この樋口のカウンターが非常に鮮やか。この発言は「雛菜は雛菜のことしかわからない」とする市川の価値観に対する意趣返しである。この現状を楽しいと感じるか、そもそも楽しいかどうかを判断基準にするかはこちらの価値観の問題であり、市川の言うように個々人の価値観には立ち入らないという立場を取るのであれば、その質問に答える必要はない、という意図があり、樋口が如何に市川の価値観を理解しているかが伺える。尚、第6話後半ではこの逆パターンも見られるので、本当にこの二人は仲がいいと思う。練習室に戻った福丸は、市川も残って練習するか尋ねるが、市川はいつも通り帰ると返す。しかし、第4話の会話も踏まえ恐らく市川もこの後どこかで練習するだろうと思っている福丸は、市川に飴を渡す(塩分付きということで、割と明確に次の練習を意識したものだと推察される)。

 普段のように練習が終わった後、Pは1つ仕事が決まりそうだと4人に告げる。決して華やかな仕事ではないが、4人の意思を確認したい、求めるものでなければ、必ず別の仕事を取ってくるとまで言う(このPの思い切った発言の後に、樋口がPの本気を感じ取ったような吐息を漏らすのがGood. ってか樋口は今回息の演技がかなり多いんだけど、ちゃんと大袈裟になりすぎない範囲で意図を伝えてくれるので声優さん天才か?ってなってる)。今後アイドルとしての活動を続けるにあたり、理由が必要になってくるであろうなかで、4人としての考えを出してほしいと伝え、その場を後にする。ここでイベコミュ名物一択の選択肢=撞着語法が現れる。毎回重要な局面ですわ。

 この仕事を受けるかどうか、4人の先陣を切るのが市川。彼女にとっては4人でなにか楽しそうなことをするのが目的であり、仕事の規模とか、誰が見ているかとかは判断基準に入っていないからこそ為せることであろう。ここで樋口はこの仕事の意味を問う。当然、樋口は意味や理由がなければ動けない人間だからだ(この点は後編で掘り下げたい)。第4話の「私も不安なのかも」が反芻されているのは、かつての自分たちに戻れるのであれば、樋口はここでアイドルをやめても構わないとすら思っているからだと私は受け取った。これを受けて市川が、では樋口以外の3人で行くことになるのかと反撃に出る。これも樋口の価値観をよく理解したうえでの対応だろう。

 

 

 

*1:尚、この回想で樋口が述べる「幼馴染」は福丸のことを指しているとも読めるが、元となる樋口のプロデュースコミュでは、Pがその直後に「浅倉さんと一緒に(アイドルにならないか)」という勧誘の仕方をしているため、樋口より先にアイドルになったのは浅倉のみであって、少なくとも回想する出来事が起きた時点で樋口が念頭に置いている「幼馴染」は浅倉のみと考えられる。これは、後述するがノクチルを4人のユニットとして世に出したいと思っているPであれば、また浅倉がノクチルというユニットに対して抱いている感情を少なからず理解しているPであれば、浅倉以外のメンバーが既に加入していた場合、「みなさんと」、あるいは少なくとも「浅倉さん『たち』と一緒に」という表現にするはずだからだ

*2:他のユニットと比較しても、ノクチルの初仕事は明らかに規模が大きい。283プロが世間的・業界的に認知されてきたという実務的な側面もあろうが、ノクチルにとっては、小さな成功を重ねて自己肯定感を養ったり、ユニットとしての一体感を醸成したりするよりも、センスと環境に恵まれてきた彼女たちに「成長」のチャンスを与えたいという動機もあったと推測する

*3:決まってない

*4:「アイドルが戦うってのがどういう事か、見せてやる」という黛冬優子の台詞に完璧に集約されている

28/03/2021: 近況

会社の人にすら生存を危ぶまれているので、特に面白いことは何もなくまとまりもないが近況を記す。「〇〇さん、生きてますよね?」「学校で授業を受けていることにはなっているので、何かあれば連絡があると思いますが」「孤独死とかシャレになんないですね……」といったメールが本当に社内で飛び交っていたし、銀行口座を(やっと!)開くために約2か月ぶりに会社の人に対面したときも「○○さん、精神的には大丈夫ですか?」「不安も多い中、文句の一つも言わず勉強していて偉いですね」とのコメントを頂戴した。俺は偉い。今日はこれだけ覚えて帰ってほしい。何だったら先日警察署での外国人登録手続を実質一人で済ませたのもマジで偉いと思う(コロナ禍のため書類手配のエージェントは建物の中に入れず、入口で簡潔に説明をするのみであった。私が迂闊にも「勉強のためにも英語ではなく現地語で説明をお願いします」と告げた際の、彼の爽やかな笑顔が印象的であった)。

 

当地では現在、スーパーマーケットとドラッグストアを除くほぼすべての店舗が閉鎖されている。元々2月末から1ヶ月間の措置となる予定だったが、先日4月半ばまで延長されることがアナウンスされた。恐らくまた延びるのだろう。来るはずだった仲の良い同期の渡航もあえなく延期となった。先生によれば本来はもう夏が終わり、秋に差し掛かっているはずなのだが、まだ気温は30度を上回っており、長い夏が続いているらしい。そんな中、日々やっていることと言えば、本分たる語学の勉強、それから健康維持のための自重筋トレ、おまけにシャニマスウマ娘くらいである。最近ではプロ野球センバツが開幕したので、朝起きて試合の経過を見ることも日課になりつつある。中京大中京の主戦・畔柳くんは中日に入団してくれるのだろうか。どうでもいいがウマ娘のアプリはすごい。なんか全部がめちゃくちゃリッチ(語彙力の不足)。一体何人のエンジニアと何億円の資金が投入されたのかと思う。国産品の品質低下が各産業で顕在化しつつあるようだが、このクオリティはマジで世界と戦える水準な気がする。別に世界のソシャゲのレベル知らんけど。帰国したら競馬を見に行きたくなるくらいには面白い。

 

食べ物の面では、フードデリバリーは使えるものの、味が濃くあまり身体によろしくない食事になってしまうので、基本的には自炊としている。そのせいか若干痩せた気がする。なお、ほんの数週間レストランに行ける日々があったが、農業大国たる当地のメシは大体美味い。この状況でもなお、スーパーやデリバリーサービスで働いている人々には本当に感謝の意しか出てこない。ということでたまにデリバリーサービスを利用するときには、必ずチップを満額払うようにした。たった数十円の額、惜しむ方が却って心残りであるし、俺にできることはこれくらいのもんである。一人で家に居ても割と平気なタイプの人間なので、幸いこの環境にあまりストレスを感じてはいないが、ここ一週間口内炎が治らずにいる。ビタミン剤やマウスウォッシュを使用する頻度を上げるなどして対処しているが、知らず知らずストレスが溜まっているのかもしれない。ひとつ心配事があるとすれば、人と話す機会が余りにも少ないので語学の上達が遅いのでないか、という点だが、まあこの辺りは別に誰かとの競争という訳でもないので、自分のペースで粛々とやるしかないと腹が決まり始めている。いま起きていることは、渡航が大幅に遅れた段階で既にある程度覚悟していたことが大半なので、そんなもんだろう、というのが正直なところだ。学習の中心はもっぱら作文で、先生からテーマを与えられて書いている。流石プロの教師、結構書いていて面白いテーマを出してくれるのであまり「宿題」という感覚がない。例えば、複数の民族音楽を聴いて感じたそれらの違いを説明する、所得水準・生活態度・よく聞く音楽に関連する統計を読んでそれぞれにどのような相関があるかを分析する、何故キリストは12月25日に生まれたことになったのかに関する仮説を紹介する、等当地の文化・政治・宗教に関わるテーマがある一方で、日本の伝承の粗筋を述べ、それが現代に与えている影響を説明する等、日本のことを紹介する機会もあり興味深い。最近は5分くらいの音声を聴き、その要約を作るなどもしている。ただ、いまのレベルでは何十回も聴かないと詳細が分からないのが苦しい。作文を書き、それを音読するというシュリーマン式語学勉強法を墨守し、このサイクルを繰り返すことにはもはや修行のような趣がある。

 

コロナ禍とは関係ないが、やはり『シン・エヴァンゲリオン』を観ることができないのはつらい。アスカは幸せになったのか、なったとしてどのように幸せになったのか。なんとなく漏れてくるネタバレを見るに、実際に劇場に観に行ったら俺は怒って帰ってきていたような気がするので、ひょっとしたらこれでよかったのかもしれない。同様に、『ガールズ&パンツァー』で突撃戦法を進化させた知波単を大洗がどのように破るのか、『シン・ウルトラマン』にはどの怪獣が出てきてビートルがどんな活躍をするのか、科特隊はどのような官僚機構として描かれるのか、『レヴュースタァライト』新作劇場版で西條クロディーヌは天堂真矢に何を語り、何を語らないのか、大場ななは果てしない再演の先に何を見るのか、等々、「日本の最新情勢」に対する関心は尽きない。

話は変わるが、当地で二か月弱を過ごす中で、感想程度でしかないが何となく見えてきたことがある。(自分が読んだり聴いたりできるものの中でしかないが)当地のメジャーなテレビ・雑誌の水準は、日本との比較という観点では高い。ニュースには必ず各領域の専門家が呼ばれており、視聴者に分かるように科学的な説明を丁寧にしている。雑誌においても、現場の細かい取材とデータに基づいた記事が多くを占めている。実際、ジャーナリストは当地で人気のある職業の一つであり、社会科学・人文学系の修士が多く務めていると先生から聞いた。これは日本とは異なる現象である(このことを先生に伝えると「なぜ専門家でない人間の言っていることを人々が信用するのか?」と不思議がられた)。しかしながら、現状は見ての通り、また反ワクチン派も一定数おり(Uberに乗るとそういうドライバーがたまに現れる程度の感覚。別途統計を当たりたい)、さらに、強硬な聖書主義を特徴とする福音派も近年増加傾向にある。当地の経済格差が大きいことはほぼ周知の事実であるものの、(使い古された表現になってしまうが)いわゆる「社会の分断」を経済的な部分以外でもなんとなく感じるところである。なお、当地では貧困層向けに食事の供給、風呂・散髪サービスの提供、が無料、ないしは極めて廉価でなされており、路上生活者の様子が他国の大都市圏とはかなり異なる点も印象的であった(身も蓋もない言い方をしてしまえば、清潔かつ健康そうであった)。高々二か月でここまで言うのは憚られるが、多様な問題を抱えつつも、この社会はひとつの均衡に落ち着いているのでは?という疑問も抱くようになった。今後授業のレベルが上がっていく中で、そうしたトピックに関する文章も読むようになると思うので、隔離生活の数少ない楽しみとしてとらえてみたい。

11/12/2019: 纏まった文章を書く気力がない

  • 纏まった文章を書く気力がない。何かに触れた時の自分の心の動きや考えも、あちらこちらに散らばってしまい、かつ、何とか拾って見えるものに落としてみても自分として特に面白く感じるものはない。書いてみるが行方不明になって消すことの繰り返し。こうして脳が衰えていくのかな。いや心か。何が作用してこうなったのか、月並みだが切実さがなくなったのか。切実さそのものの効用はまだ証明できていない。

 

  • 得てして板挟みになる。「こうしたい」という人がいて、「ああしたい」という人がいて、どっちも合っているし、どっちも間違っている。当然だ。俺にも「したい」は一応あって、でも「こう」と「ああ」を薙ぎ払う膂力はそこにはない。あと、心が弱いからだろう、一番早く物事が閉じる道に誘惑されてしまう。結局俺の「したい」はそこなのか。悲しくなるね。物事が閉じてしまえばもう俺のやることはない。「やることをなくすことをしたい」、70%くらい翻訳調。

 

  • 人生も早く閉じてしまいたいと感じている。しかしこれは周期的なものであることすらもわかっていて、現存在からの後退が激しい。薬で精神を持ち直した経験があると、人間は血で充たされた袋に過ぎないことが分かってくると誰かが言っていた。踊るカタカナに踊らされる血の袋に名付けられた、精神というそれがそこにある。あることは確かであって、それ以上でも以下でもない。

 

  • それはそれとして、そういう理由もあって、最近は意識のある時間を少しでも短くしようとして、できるだけ長く眠ろうと努めている(社会人が9時間睡眠だぜ?マジヤバいよな)。そんな理由があるものかと我ながら思うが、ポピュラーなところではポピュラーなんだろうし、そうでないところでは全くそうではないのだろう。……何だってそうか。考えること、思うこと、感じることの負荷にだんだん耐えられなくなってきているのかもしれない。では何が?何が耐えていないのか?何を考えていたのか?

 

  • むかしやっていたスポーツでは、大げさに言えば生命の危機が目前にあったのでその間は意識をなくしていられた。思えばずっとこうしていたのかもしれない。山を登るとき、多くの局面で神経はすべて目の前の危険を克服することに向けられる。そうでないときは、疲れて何も考えられないか、世界の本当の姿に目を奪われているかだ。かつて意識を失うまで酒を飲んでいたという上司よりかは健康的。その上司と行ったガールズバーにいた、自称21歳のガールもまた、酒を飲んで意識を失うと言っていたが、各位はもっと身体を大事にしてほしい。ストロング系チューハイが厚労省に規制されるまであとXX年。

 

  • 社用で外に出た時に、如何にも自分で金を稼いでいなさそうな人間が洒落込んだ店でランチを食べていたり、帝国劇場の前で列をなして喚いているのを見るたび、なんだかんだ自分は労働教に侵されているなと自覚する。追いかけていた案件を一つ仕上げ、チームで豪勢なランチを摂りに行ったとき、互いを労う我々の隣席では、配偶者や小組織の構成員に対する主観的な罵りをターン制で投げ込みあっていると思しき2人組がいた。記憶の大半はそのとき食べたフカヒレスープに支配されているのでまだよかった。

 

  • ゴシップ、ゴシップ、ゴシップ、大嫌いだ。俺と関わりのない誰がどうしたかなど知ったことではない。少しズレるけれど、オフラインでの人物評価という行為そのものが不可避的に孕んでいる窮屈さ(要するにダサいってこと)はできるだけ味わいたくない。という雰囲気を醸し出しているせいか、何にしたって俺はいつも最後尾を周回遅れで走っている。あるいは話しても仕方ない人間だと思われているのか。世界ではそんな俺にはお構いなしに大女優が出版界に潤いを与えている。これも大物の大物たる所以か。

 

  • そろそろどこか遠くに行くらしい。ちょうど遠くに行きたいと思っていたので僥倖だ。「どこか遠くへ逃げたら楽になるのかな そんなわけないよね どこにいたって私は私なんだから」と宇多田ヒカルは歌っていた。どうでもいいけど宇多田ヒカルの書く歌詞の変遷を追ってみると結構面白い。でも変わろうと思えば人は変わっていけると、これはまだ信じている。

21/07/2019: 『天気の子』感想

例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして、僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だと思う。誰だってそうだろう。でもきっと、本当は途轍もなく重たいはずのその問いに、かくも簡単に答えることが出来るのは、僕らが、その問いはあり得ない仮定だと知っているから、真の差し迫った選択ではないと知っているから、そんな形で世界の滅亡など訪れないと知っているから、なのだろう。しかし実際は、僕らはそれとは違った形で、でも内実としては同じ選択を日々重ねている。そしてその選択の結果を、自分たちとして受け止めなければ、あるいは誰かに受け止めさせなければならない。そして世界は彼方に確かに存在する滅亡に向かって、時々刻々と、ほんの少しずつ近付いたり離れたりしている。

映画『天気の子』を観た。新海誠監督としての転換を含む傑作であったと思う。私が本作を「転換」でありかつ傑作だと感じた最大の理由は、要すれば「社会との対峙」と「物語の続き」を逃げずに、現代的な感性を上手く埋め込みつつ描き切ったこと、だと考えている。この観点に沿って、本作の感想を簡単に記す。

 

注:1回観て、その後の勢いで書いていることもあり、事実誤認等あったらすみません!

 

<「社会との対峙」について>
本作の舞台となる雨続きの東京は、月並みな表現だが、過去との比較において閉塞感の溢れている今の日本社会の比喩だろう(もしこれが間違いなら、ここから先の文章は全て無意味なので読む必要はない)。間宮夫人は東京の天気のことに触れながら「今の子供たちは可哀想」と嘆いているし、これを聞いた須賀は、後に「世界は元々狂っている」と語る。東京タワーとスカイツリーを同時に映すカットも印象的であり、時代の必ずしも望ましいとは言えない移り変わりを暗示している。
社会という概念の導入という面では、登場人物間の世代の違いを観客に意識させる描写、あるいは登場人物たちが世代の違いを意識している描写が散りばめられていることにも気付く。まず本作では、未成年、特に帆高が(彼の直向きさを表現するにしても過剰なほどに)徹底的に愚かで無力な存在であることが強調されている。Yahoo知恵袋に質問を投げ、金もないのに週刊SPA!を買い、歩いて48分の場所にバスで行く、といった笑えるところはともかく、帆高は拳銃や陽菜の特殊能力なしに警察や不良を撃退することは(当然ながら)できなかったし、発言も浅薄で、他者が自分の発言をどう理解するかという配慮は一切なし、先のことは考えず、陽菜と共に在りたいということ以外に何の動機も考えもない、といった有様である(これはまた別の効果もあると思うのだが、それは後述)。その対比として、登場する大人たちの殆どは常識的、善人であると言ってもよい人々であるが、そうであるが故に帆高の行動の障害となる(例外として、大学生でモラトリアム期にある夏美は、帆高の考えにある程度理解を示している)。大人と子供が対比されていることだけを以て、本作に社会という概念が導入されているとは言えないが、このほか、世代間のステレオタイプな意識を思わせる台詞も多い。先述の間宮夫人の嘆きや、安井刑事の「今のガキは何でもネットに書く」という発言、夏美が泥酔した須賀に対して放つ「昭和!」という罵り、他方で彼女の口から自然に出た「イマドキの子はすぐに訴える」という冗談などである。ここに述べた台詞に含まれている認識は、何れも事実とは異なるもの、ピントのずれたものであることは、今の日本社会の状況を踏まえると、偶然ではないだろう(2つのタワーの話はどちらかというとこちらの文脈に回収されるのかもしれない)。
こうして、社会という概念が導入された本作において、帆高と陽菜はそれに強い意志を持って対峙する。注意しなければならないのは、帆高と陽菜が対峙しているのは、個々人の大人ではなく、その総体である社会であり、社会の中で共有されている「正しさ」である(廃ビルのラストシーンで、帆高が拳銃を向ける相手を定められなかったのが象徴的)。「正しい」決断をするのであれば、帆高は神津島に帰るし、陽菜は天界の人となる。帆高と陽菜の決断が我々に問いかけることは、誰か一人の犠牲や想いを踏みにじることによって支えられるほど、社会の「正しさ」は重要なのか?ということ、もっと踏み込んで言えば、自らが結果を引き受けないような選択を、他者に強いることは出来るのか?ということだろう。人々は何の代償も払わず、責任も負わず、陽菜の消失によってもたらされた晴れた世界を享受する一方で、帆高と陽菜は水没した東京における日々を受け止める覚悟がある。ある選択が決定的に世界を変えることはないが、あらゆる決定の集積として世界は変わっていく(須賀の最後の一連の台詞はこのことを言いたかったのだと思う)中で、自らの選択の結果を受け止めて生きていくことを止める権利は誰にあるのか。「誰にも迷惑掛けてない」のに干渉してくる社会が、どうして誰か一人の犠牲を強いることができようか。本作で伝えたかったメッセージはここにあるのではないかと考えているし、私はこの問題意識に強く共感する(ここではこの問題意識の詳細には立ち入らない)が、新海監督が公開前に「賛否を呼ぶ」と表現していたのはこの箇所ではないかと推察する。

 

<「物語の続き」について>
現実世界においては、終焉も大団円も訪れることはない。終焉や大団円が存在するのは物語の中だけであり、現実世界においては、輝かしい何かを成し遂げた後にさえ必ず何らかの問題が発生し、人々はその問題と向き合っていかなければならず、破滅的な出来事の後でも生き残った人々はそこで生きていかなければならない。
帆高が陽菜を救い、東京が水没した世界においてもなお、人々は生活を営んでおり、現実を受け止めるため世界に対する自分の認識を少しずつ変えながら生きており、花見を楽しみにしていたりさえする。決して絶望はしておらず(水没後の世界の最初のシーンで、敢えて「ポジティブだね~」という台詞が浮くような音作りにしてある)、元々狂っている世界に自らの選択で影響を与えた帆高と陽菜は、その結果を引き受けて、この先も生きていく。ここで描かれているのは、言うなれば「物語の続き」の世界である。そこで二人は再会し、「大丈夫」であることを確かめる。決して「完璧」でも「良く」もないが、「絶望」でも「悪く」もない。ただ、ここに二人で、知っている人々と共に在り続ける日々は「大丈夫」で、陽菜の周りには小さな晴れ間が覗いている、と締めくくるのは、とても誠実で、爽やかなエンディングだと感じた。言うまでもなく、こうした世界の認識は、現代の価値観とオーバーラップする部分が大きいと思う。”Weather” の動詞には「困難を乗り越える」という意味があり、英題の ”Weathering With You” はまさに物語の続きのことを指しているのだろう。

物語という観点で言えば、帆高が家出をした理由も、陽菜が児童相談所に行きたがらない理由も、劇中では何一つ具体的には明かされていない。通常の、お手本となるべき物語であれば、観客を納得させるだけの登場人物の動機、来歴、過去の出来事などを描いているはずだが、本作はこれに反している。明確な動機なしに登場人物が行動を起こして良いのだろうか?と、物語に慣れきった我々(と言うか私)は本作の途中で疑問を抱く。しかし、帆高と陽菜が世界を変えて以降のシーンを観た我々は、その疑問に再度疑問を抱く。そんなものより、少なくとも本作においては「物語の続き」の方が余程重要なのではないか?、物語と現実世界においては、時間の矢印を伸ばす方向が逆なのではないか?という疑問である。自分の行動の動機に、自分の来歴や過去の出来事が影響したことなど本当にあるだろうか?それは、他人に自分の人生をそれこそストーリーテリングするときだけ現れる擬制ではないのか?と気付く。本作の本筋とは恐らく関係ない、夏美の就職活動に関する話が、何故複数回に亘って出てくるのか、はここに関わっていると思う。自他の人生のストーリーテリングに慣らされた我々は、「過去」ありきで現在を、そしてその直線上の見えるはずのない未来を考えてしまっている。でも本当は、過去を語らぬまま現在を走り抜けていく帆高と陽菜のように、現在を積み重ねていくことしか未来に至ることは出来ない。これは極めて現代的な感性であると思うし、こうした感性を物語の中に巧みに埋め込んでいく手法は新海監督の技量と言える。

 

<過去作品から見て>
本作は特に『雲の向こう、約束の場所』との関連が強いと思われる。
ヒロインと世界の存亡が密接に関わっている作品として『雲の向こう』があり(「雲」つながりなんすね)、『雲の向こう』では、主人公はヒロインとの約束を果たし、彼女自身と世界を救う代わりに、彼女は主人公への想いを忘れてしまう。ここにおいて社会という概念は一切導入されておらず、また本作の結末とは正反対と言っても良い。本作において、「約束の場所」は津軽海峡の向こうの天を衝く高塔ではなく、代々木の古びた低層ビルである。そしてそこに向かうためには、純白の飛行機を駆るのではなく、水没した線路を衆人環視のなか恥を晒しつつ歩くほかなく、この点は、それぞれの主人公が、物語の外側を引き受ける覚悟があるか否かを、端的に表していると思う。
また、過去の他の作品と比較して、「世界」の指す内容がより具体的になっている印象を受けた。本作冒頭のモノローグで言及される「世界の秘密」は、『秒速』において遠野貴樹がロケットに託した「世界の秘密」とも、『言の葉』で秋月孝雄が雪野百香里に夢見た「世界の秘密」ともきっと異なっている。本作の「世界」とはまさに、彼らがいま生きているその場所のことであって、宇宙の彼方や女性のような未知に溢れた対象の中、「ここではないどこか」には存在しない。これは、作品としての問題意識が社会を捉え始め、終わりのある物語に留まるつもりがないことと関係していると考えられる。

 

<まとめ>
過去作とは違う。内省を繰り返し、未知の中に世界の秘密を捜し、自己憐憫に浸ることはもうない。
過去作と同じである。君と僕との関係なくして、世界を語ることはできないし、世界を語らずして、君と僕との関係はありえない。
新海監督はたぶんもう生まれ変わってしまった。もはや現代を生きる者としての使命を帯びている。
『天気の子』は、一言で言えば、これまでの新海監督作品として観なければ満点、そうでなければもう終わりです。

 

<雑駁な感想+パンフ読んだ後の追記>

  • ぶっちゃけ一番好きなシーンはラブホでプロポーズする→「神様何も足さないで、何も引かないで下さい」のところ。働くとか、一緒にいるとか、出来る訳ない癖に、でも二人ともそれを分かって言ってるところが、これまで散々見せられた帆高のダメっぷりと相俟ってすごく切ない気持ちになった。ちなみに次に好きなのは、連行中の「鑑定医、要りますか?」
  • 陽菜の首に付いていた、雫の形をしたチョーカーが、空から落ちてきた後に外れてたのがいい。結局天気の力は彼女にとって呪縛であって、帆高もそれを解いてあげたいと思ったのでしょう。空から落ちる二人を繋ぎ止めるために、帆高が付けてた手錠を敢えて使わなかったことと併せて考えるとエモい。
  • 音楽と映像は素晴らしいのが所与なので言及してない。でもすげえよかった。歌詞もよく作品とリンクしてますね。
  • 陽菜の表情がカット毎に全然違って、あどけなく見えたり大人びて見えたりするの、良いと思います。あと「そっか」「君ィ?」「ねぎねぎ~」等のちょっとした台詞が好き。
  • 最近観た『さらざんまい』と被る部分があって面白かった。例えば自己犠牲の否定とか、東京タワーとスカイツリーの対比(から来る五輪前の記憶保存の欲求)とか。やっぱりそういう時代感覚ってあるんでしょうかね?ちょっと強引か。
  • 須賀さんが42歳ってのは意外。30チョイかと思ってた。新海監督は須賀さんに自己移入してたんでしょうかね。大人として良識的に振る舞わないといけないし、社会の言い分もよくよく分かるけど、真っ直ぐに走り抜ける少年少女の側に立っていたい的な。ってか須賀さんってなんで神津島いたの?ってか須賀さんなんで雨水溜まってるのに窓開けたの?
  • 本田翼さんの演技にあんまり違和感なかった。たぶん素であんな感じなんでしょう。
  • 2回目観た後にパンフ読んだら大体似たようなことが書いてあって安心した。後で追記するかも。一点、「貧困」の部分は見落としだった。そこまで考えてらっしゃるんですね……
  • あんなことがあっても帆高を東京の大学に出してやった彼の両親は人格者。じゃあなんで家出したんや(ちゃんとした良心的な親が息苦しいというのはわかる)。
  • 瀧くんの出てき方がZガンダムアムロっぽかった(伝われ)。
  • 綾音と花菜を侍らせ太郎強すぎる。一推し声優の市之瀬加那さんが出ていて嬉しい。
  • バーニラバニラは狂った世界の象徴。

 

04/02/2019: (記)川苔山

余りにも書くことがないので、山行の記録を付けることにした。これもいつまで続くかは分からないが。私のことを「終わった人間」と呼びたければ好きにしていいし、私はそれに反論する言葉を持たない。最近書くことがない理由に関しては一回自分の中で整理を付けておきたいとは思っているものの、まだ頭の中で纏まっていないので、無意識が何とかしてくれるのを待つほかない。

さてここからは山行の話。「山行」というのは「登山に行く」という意味で、以前会社の人と共に登山をしたときに質問を受け、どうやら一般的な語彙ではないらしいことに気付かされた。話は逸れるが、聞くに私の口から出る言葉が相手の頭の中で漢字に変換されないということはしばしばあるらしく、人生通算で触れてきた言葉のうちテキストが占める割合を少しずつ減らしていった方が良いのではないかと思わされる。ここからは本当に山行の話。

別に言うほどのことではないので特に誰にも言っていないと記憶しているが、日々実感する自らの身体の衰えを少しでも食い止めるべく、私はここ半年ほど月に一度は登山をするようにしている。と言っても、筋トレや語学のように(私は思想的に筋トレは受け付けない)自らを縛る、義務を課す、といった感覚ではなく、飽くまで目安として置いているものであり、事実もともと登山が好きということもあり、特に負担を感じることもなく、いや寧ろ楽しんで続けられているというのが実態だ。

今回登ったのは川苔山(カワノリヤマ)。東京都と埼玉県の県境に位置するこの山の標高は1363m、奥多摩の名峰のひとつに数えられる。一時期「川乗山」と表記されたこともあるが、かつて川苔が採れたという名の由来から、近年「川苔山」という表記に戻したとのこと。一方で最寄りのバス停の名前は「川乗橋」である。浅学ながら「川苔」なるモノの存在を実はこれで初めて知ったのだが、これは綺麗な水の流れる山渓の岩上に生育し、食用にもなるらしい。この山を選んだ理由が特段ある訳ではないが、自宅にあるガイドブックを引ったくったところ(私は大抵、前日の夜に山行を思い立つ)、日帰りで行けて、さほど危険ではないがそれなりに手応えがあり、ちょっと見所のある山、ということで川苔山がヒットした。

翌朝は5時30分に起床し、地下鉄で新宿へ。中央線、人もまばらな「ホリデー快速おくたま」の始発に乗り、1時間30分ほど電車に揺られる。中野から先の記憶は一切なく、気付いたら終点の奥多摩駅に着いていた。その後はバスで15分ほど移動し、先述の川乗橋バス停に到着、登り始めとなる。この時点で8時40分。登山としては遅い方である。

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当日は快晴なるも寒さは厳しかった。これは登り始めの写真。

登り始めて気付いたが、やはり2月の寒さは厳しかった(同日の最低気温は氷点下1度)。登り始めたら直ぐに身体が温かくなるだろうと高を括っていたら、なかなかそうはいかず、敢えてペースを上げて1時間ほど歩いてようやく身体が慣れてきた。

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川沿いには沢山の氷柱が。清冽な空気は冬山ならではのものだった。

序盤は小滝が落ちる川苔谷を、橋を渡り返しながら進んでいく。滑ると危ないので神経を使う。陽が一日中当たると思しきところには雪が積もっていない一方で、日陰になるところでは立派に雪が積もっているのが面白い。

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こういった橋を何度も渡る。陽に当たって煌めく川面が美しい。

しばらく登っていくと、川苔山の最大の見所である「百尋の滝」に行き当たる。これはヒャクジンノタキではなくヒャクヒロノタキと読む。細かいデータは調べていないが、その大きさはまさに圧巻で、東京都内にこんな場所があるというのが驚きである。真冬の澄み切った空気に包まれているということもあってか、言葉にし難い神々しささえ感じさせた(写真では伝わらないかも知れないが)。

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百尋の滝。流石に修行僧はいなかった。

この先は取り立ててフォトジェニックな場所もなく、淡々と頂上を目指し登っていくのみ。途中、完全に雪で埋もれた登山道を何度も通っており、足が取られるせいで予想以上に疲労が溜まってきたこともあって休憩を取りたくなったが、所定の場所ではないことから座れそうな場所はないので、登山道脇に積もった雪に寝転がって休むことにした。これが最高に気持ちよかった。こんなに寒い日の山中、当然周りにはほとんど誰もおらず、風や川の音が微かに聞こえる中で、雪原の中に倒れ込み、雲一つない澄んだ青空をぼうと眺めていると、この空間全てが自分のものであるような気がしてきた。目を瞑ると意識が遠のき、どこか遠くを飛ぶジェット機のエンジン音が小さくなるにつれて、自分という存在の感覚がある種の快感と共に希薄になっていくような……とここまで書いて何だか死にゆく人の独白のようになっていることに気付く。とにかく気持ちよかったのは本当。ただ、5分ばかり寝ていると背中が余りにも冷たくなってきたので気を取り直して山頂を目指す。

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こんなような雪道が延々と続く。俺は一体なにをしに来たんだ?

そんなこんなで山頂に着く。ここまで約3時間の歩程で、距離・時間的には大したことはないはずだが、やはり雪道だと体力の消耗が激しく、流石に少し疲れていた。山頂では携帯コンロで湯を沸かし、コーヒーとカップスープを淹れ、あんパンと共に食した。見晴らしのいい山頂と心地よい疲労をスパイスとして摂る食事は五臓六腑に染み渡り、この上なく美味である。下界で如何に舌を肥やそうとも、全身で味わう食事には勝てないのではないだろうか。

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山頂からの眺め。富士山とか色んな山が見える(適当)。

後はひたすら下っていく。下りはつまらんという人もいるが、どう下れば一番安全で楽かということを考えながら下るとそれなりに楽しい(まあどうあがいたって登りには敵わないのだけど)。下りはさほど積雪地帯はなく、余裕をこいて鼻歌を歌いながら下っていくとあっという間に麓の集落に着く。帰りは奥多摩駅ではなく鷹ノ巣駅から。なかなか素敵な駅舎だった。蕎麦の一杯でも食べて帰ろうかと思ったが、幸か不幸か割と直ぐに電車が来てしまったので、それに乗っていそいそと新宿に戻ることにした。

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上は集落の写真(オタクは急坂にある集落に弱い)。下は駅舎。待合所は近所の小学生の遊び場になっていた。

自宅近くに戻ってからは、一旦荷物を置いて近所の銭湯に繰り出し、温泉→サウナ→飲酒→休憩所で漫画、の黄金コンボ。これは絶対に負けない。同日はもう夜9時前には眠くなり、熟睡したのち翌朝早くにバチリと目が覚めて、仕事も速攻で片づくという好循環が生まれる。斯くして私は今月も、真に自分だけのためであり、自分だけで完結してしまう休日を満喫したのであった。

02/09/2018: 『ペンギン・ハイウェイ』感想 世界は謎に満ちている(た)

<以下、ネタバレ注意>

世界は謎に満ちている。

自分たちが住む街の構造、生き物の生態、星々の巡り、といった身近で、既に誰かによって解明されているものから、生命の起源はどこにあるのか、自分の記憶は何によって根拠付けられているのか、人は何故必ず死ぬのに生まれてくるのか、そして死んだ後はどこへ行くのか、世界の果てはどこにあって、宇宙の縁はどのようになっているのか、といった壮大なものまで。

幼い頃、めくるめく世界の謎に心を躍らせ、あるいは恐怖し、知ることに喜びを覚えたり、自らの理解の及ばなさに途方に暮れたりしたことは誰にでもあるだろう。そして、物事を考えている内に気付けば眠りに落ちること、はたまた想像力の彼方を泳ぐあまり眠れなくなってしまうこと(結局眠るのだが)。そんなことがあっても、目覚めれば家族や友達がいる、暖かな、永遠にも思える日々が毎日続いていて、世界は謎に満ちていた。

 

映画『ペンギン・ハイウェイ』を観た。原作はかの有名な森見登美彦の著作であるが、(私は森見さんの作品が好きで、それなりに読んでいるにも関わらず)これは未読であった。事前情報もほぼなし。あとから知ったことだが、日本SF大賞受賞作とのこと。正直タイトルだけではあまり惹かれる点がなかったので、公開直後に観に行くことにはならなかったが、何だかんだ森見さんの作品であること、徐々に話題になりかけていたこと、金曜日の仕事が早く終わる目処が立ったこと、最近の週末は夏にかまけて街を離れがちであったこと、等々条件が揃ったので、観に行くことにした。結果、大変素晴らしい映画であったので、1回しか観ておらず記憶に不正確な箇所があるかも知れないが、パンフレットのみを一読した上で、ここに感想を記す。

1.テーマと「謎」

本作では、主人公であるアオヤマ君と彼の周囲の人々による謎解きを通じてストーリーが展開していく。アオヤマ君が普段から追いかけている謎である、川の源流を探す探検や、お姉さんのことに加えて、新たな謎としてペンギンの出現や、<海>の発見、等々が関連していく。本作のテーマは、表層的には「世界の謎」と、それを解き明かす冒険にあるのだと思うが、より観衆の心を動かしたのは、謎を追究し解明すること(=「世界の果て」に至ることとも言える)の楽しさと、それと表裏一体の関係にある哀しさなのだと考える。謎を追究する楽しさは本作やそれ以外の作品でも存分に語られているので割愛するが、本作が佳境を迎えるにつれ、爽快感のあるアニメーションとは裏腹に、例えそれが哀しい結末をもたらすとしても謎を追究せずにはおれないという人間の性とも言うべきものが描かれている。勿論、ここで言う「謎」には他者との出会いも含まれており、こちらも佳境を迎えるにつれ「他者という謎」が占める割合も増えているように感じた。

この文脈を汲むと、私にとって本作の一番の肝、と言うより個人的に最もグッとくるポイントは、お姉さんが実は人間ではないという仮説に対するアオヤマ君の確信が強まっていくのに比例して、アオヤマ君がお姉さんのことを一人の人間として愛おしく(と呼ぶには未分化な感情かも知れない)想う気持ちが強まっていくところである。

物語が始まったとき(=アオヤマ君の乳歯がまだ生えていたとき)、恐らくアオヤマ君はお姉さんのことを一人の人間だとは考えていない。もう少し丁寧に言うと、分割された、解き明かすべき謎、及び事実としてお姉さんのことを認識している。彼にとってお姉さんは、「チェスのコーチ」であり、「研究結果の話し相手」であり、「ペンギンを出す能力者」であり、「おっぱい」である。それは仕方のないことであるが、憧れる思いはあっても、それだけで頭の中が一杯なのである(秀才とは言え、小学生だし)。だからこそ、乳歯を抜かれる直前直後のアオヤマ君は、お姉さんを実験台としてしか見做さず「大人気ないこと」を言って怒らせてしまうし、お姉さんが怖い夢なんて見ることはないと誤解してしまうし、チェスをしていてもおっぱいばかり見てしまう(あのシーンでアオヤマ君が「見ているし、見ていません」と返したのは、彼が量子力学の本を少し齧ったからかな?と邪推したくもなる)。

そして物語中盤、乳歯を抜かれてからの謎解きを通じて、お姉さんとの交感を深めていく中で、彼はお姉さんのことを一人の人間として徐々に理解し始める(枝葉末節だが、乳歯が「抜ける」のではなくて「人に抜かれる」という描写は、人は一人で大人になるのではないという作品のメッセージなのだと思う)。お姉さんの部屋で、眠ってしまった彼女の寝顔を見ながら、彼女がいま存在している通りに存在していることの尊さ、そしてその事実がアオヤマ君自身の心に及ぼしている謎、言葉では表現できないような気持ちを自覚するシーンはそれを良く表しており、お姉さんは彼女それ自体として、より大きな「他者という謎」であり、また彼自身の心の中にもお姉さんにまつわる謎が芽生えていることをアオヤマ君は知る。お母さんがいつか死んでしまうことを怖がった妹を優しく諭した後に、自分もお姉さんが白骨と化し海に還っていく夢を見てしまうのは、お姉さんがいつかは死んでしまう存在であることを改めて自覚し、そしてそれは妹にとってのお母さんと同様、アオヤマ君に途方もない悲しみを与えると彼が気付き始めているからだ。それと並行して、能力者であるお姉さんを他の研究者たちから遠ざけようというアオヤマ君の試みの動機は、結果が得られるまで実験を続けたいという欲求から、お姉さんの側にいたい、彼女を守りたいという気持ちへと、徐々に変化していく。脇道に逸れるが、<海>の研究がある程度進んだ段階において、ハマモト先生経由でお姉さんの特殊能力は既に公知の事実となっていることを彼女は知っており、アオヤマ君の奮闘は徒労に終わっている。しかし、飽くまでお姉さんを庇おうとするアオヤマ君に投げかける彼女の眼差しはどこまでも優しい。

その後、命懸けの断食実験を通して、人間は3日間食事を摂らずに生きていることは出来ないと結論付けたアオヤマ君の頭の中では、お姉さんは人間ではないという可能性が濃厚になっていく(アオヤマ君は一貫してこれを「仮説」と呼称しており、科学的態度と彼の感情が渾然となっているところが興味深い)。その一方で、自分が体調を崩した際にお見舞いに来てくれたお姉さんが注いでくれる優しさと、自分が彼女に対して抱く気持ちが、どうしようもなく人間的なそれであるということを認めざるを得なかった。そして5歳の頃からもう泣かないと決めていたはずなのに、彼は涙を流す(あれは夢だったという説も私の中にはある。それはそれで面白いかも)。これは謎を、とりわけ「他者という謎」を追究した結果の涙である。

最後に、お姉さんがいなくなった後の世界において、彼の目標通り白い永久歯が生えそろったアオヤマ君は、自分が「どれだけお姉さんのことが大好きだったか、会いたいと思っていたか」ということに、即ち自身が抱いていたお姉さんに対する表現し切れない感情という謎について遂に自覚的になるが、お姉さんそのものを見つめることができるようになったそのときにはもう、既にお姉さんは彼の元にはいない。自他にまつわる謎を解き明かすことの何と哀しいことか。お父さんの言うように、「『世界の果て』を見ることは哀しいことかも知れない」のである。しかし、知りたいと思うことは彼や彼に類する人間にとって宿命のようなものであり、彼らは前進を続け、アオヤマ君はお姉さんに再会するためにペンギン・ハイウェイを全力で駆け抜ける。

2.アオヤマ君のこと

本作を観終わった後にどうしても気になってしまうのは、アオヤマ君にとって将来お姉さんが「呪縛」になってしまうのでは、ということではないか。総論としてアオヤマ君は、世界の謎を解き明かし、「偉い大人」になり、お姉さんと再会するために、物語が終わった後も前進を続けている。本作冒頭のモノローグの通り、アオヤマ君は仮にお姉さんの謎と出会わなかったとしても、前進を続けるタイプの少年であるが、同じ内容の繰り返しとなる最後のモノローグにおいては、演技も含め明確に方向性が異なっており、切なさと覚悟を決めた決意が滲み出ている。彼が今後どうなっていくのかは文字通り仮説の域を出ないのだが、彼は「世界の果て」に至るときの哀しみを一度経験しているし、(お姉さんに会えない可能性を薄ら感じていながらも)今後泣かないと決意できるほどに強い心を持っている。また、世界には解き明かせる謎と解き明かせない謎の両方が存在することも彼はきちんと理解しているので、もしお姉さんに再会できないことが明らかになっても、自分の中で消化できるのではないかと私は妄想している。海辺の街の中でお姉さんと交わした会話の通り、例えお姉さんが実在する存在ではなかったとしても、彼女と過ごした時間や、会話や、思い出は本物であるということを、彼はある種の悟りを以て自覚しているからだ。

さて、アオヤマ君は恐ろしいほど賢い少年である。彼が知識欲を刺激されたときに輝く瞳の表現が大変良い。彼の賢さについて特筆すべき点は、知識量というより、お父さん仕込みの徹底した科学的態度(考え方とメモスキル)である。具体例はあまりに多いが、面白いと思ったものに言及したいので一つ挙げると、アオヤマ君が劇中で明確な否定を表明しているのは確かスズキ君との喧嘩の場面だけである。これは(怒っていないときの)ハマモトさんもそうなのだが、彼らが答えに窮したときや、自ら実験や調査をしていなくて断言できないときは、必ず「わからない」「○○かもしれない」と応答していた記憶がある。これはまさしく科学的態度であるし、冷静さを欠くと彼らからそれが失われるというのも面白い。こういうちょっとしたところに気を配っているのが好印象。

3.お姉さんのこと

お姉さんは恐ろしいほど不思議で魅力的な存在である。全部書いていると長くなるので端折ると、少女のようなあどけなさや奔放さから、生命の創造主=<海>としての雄大さ、果ては世界を修復する女神としての神々しさまで、あらゆる表情を持ち合わせている。彼女の故郷が海沿いの街というのも、彼女と海の関係性を決定付けるものだろう。彼女の記憶は果たして本物なのか、人(?)為的に作られたとしてそれは、彼女が生まれてきた理由は何か、と彼女にまつわる謎は人間にとって根源的な問いである。ここからは妄想になるが、海を見たことのないアオヤマ君にとって海は謎そのものであって、お姉さんはそれをよく知っているという対比があり、<海>とお姉さんは同じではないが極めて近い存在、人間からは大きくかけ離れた存在なのではないかと示唆している。しかし、お姉さんがペンギンを喰らうジャバウォックをも生み出しているということは、彼女の人間性の一つの裏付けだと私は考えている。ジャバウォックは、お姉さんの「この世界に残っていたい」という気持ちから無意識下に生まれ落ちた存在と解釈でき、お姉さんのこの気持ちはアオヤマ君によってもたらされたものと考えられるのではないか。ジャバウォックが生まれてしまったことに対して、アオヤマ君は「僕がペンギンを生み出さないようお姉さんに言ったから」とお姉さんに告げたが、彼女は「君がそう言わなくても私は出していたよ」と返した。ポイントは「君がいなくても」でも「君のせいじゃないよ」でもない、というところで、要するに「君が原因であることは否定しないが、君が何と言おうと私はこの世界に残っていたい」と受け取ることはできないだろうか(少々無理筋か?)。そうだとすればジャバウォックに人間の手足が見え隠れするのも、世界の修復者としての立場を越えたお姉さんの人間的感情の現れだと整理できるし、醜悪な見た目をしているのも自己中心的な思考を母胎とするからだとすればある程度納得がいく。本作に通底する思想からしても、お姉さんは恐らくギリシア神話的な半神半人の存在なのだろうと思う(であればアオヤマ君にも将来お姉さんと会うチャンスがある?)。

4.アニメーションとして

まずもってペンギンが可愛い。これへの言及は避けて通れない。ペンギンはペンギンそれ自体としても可愛いのだが、一番のポイントは動きの可愛さであろう。オープニングで猫とじゃれ合うシーンが素晴らしい。本物のペンギンはあんなにキビキビとした動きはしないし、もっとふてぶてしい(はず)。動きが良い意味でアニメーション的なのは何もペンギンだけではなく、人間その他にも当てはまる(そもそも作画が芝居含めて全部良い。お姉さんとハマモトさんに関しては明らかに「彼女らのどういう側面をここで強調するか」というディレクションが的確に入っていたのではないか)。心地よいアニメーション的な動きに関しては枚挙に暇がないが、例えばアオヤマ君が双眼鏡を取り出すシーンや、抜歯に抵抗するシーン(お姉さんとの実験において再現性を徹底するシーンは個人的にツボ)、ウチダ君を守るお姉さんのペンギン投擲シーン、ペンギンパレード直前の敬礼シーン辺りがお気に入り。

本作のクライマックスであるペンギンパレードから<海>内部への突入、海辺の街での会話のシークエンス、現実に戻ってきて「海辺のカフェ」でのシーン(何で海もないのに「海辺の」カフェなのかって、ここのつながりなんでしょうね。海辺の街にあった鳥の置物もあったし。ってかあのカフェ雰囲気良すぎ。昼夜で違いもあって最高か?)、窓越しの別れの刻、までの流れは緩急含め完璧としか言いようがない(語彙が足りない)。秩序が乱れた世界を猛スピードで駆け抜けたかと思えば、一転して世界の終わりを思わせる静謐な海と街を歩き(鏡にそれぞれがバラバラに映りながら会話する演出は最高ですねぇ!)、それから途方もなく美しい木漏れ日が差し込む街路を、子供に戻ったかのように<海>を蹴散らしながら走り抜け、光射す思い出のカフェの中で二人は互いに別れを告げる。別れ際のお姉さんは涙を堪えていたように見えた。少年の前では最後まで「お姉さん」でいたかったのだろう。最後の演出が音楽含めかなり抑制的で、爽やかな感傷を促していたのも良かった。

……何というか、アニメーションそれ自体に関して書こうと思うと異常に語彙が不足してくるのでアオヤマ君に負けじと俺も勉強しよう。

5.総論とエンディングについて

正直言ってわからないことだらけの映画である。なんとなくわかったような気もするが、全て筋が通る説明というわけでもなく、アオヤマ君の言葉を借りるなら「仮説」でしかない解釈だけがある。それでも、世界は眩い謎に満ちていること、そしてそれを追究することの価値、他者という謎に挑む尊さが、爽やかな感動と共に優しく押し寄せてくる。いつしか自分の理解できない物事を遠ざけて、箱の中に仕舞っておくことで忘れかけていた、「わからないこと」が本来的に持つ輝きを思い出させてくれる。

……とかとか自分なりの考えを纏めようとしている中、宇多田ヒカルの『Good Night』が観衆に襲いかかる。私はここで涙腺が崩壊した。余韻とはまさにこのことであろう。

劇エヴァのときも思ったけれど、宇多田ヒカルが歌うエンディングは本当に素晴らしくて、特に歌詞の的確さが凄まじい。シンプルで飾り気がなく、それでいて作品の根幹を貫いてくるセンスは流石と言うほかない(そもそも曲がとてもいい)。個人的には「Hello 君が見ていた世界 謎解きは終わらない」と「この頃の僕を語らせておくれよ」がクリティカルヒットだった。何らかの方法で購入したい。

<補遺>

感想文を書きながら、休憩がてら原作小説を読んでいた(400頁程度の作品だが当然面白いし、筋が映画とほぼ同じなのですらすら読める。休憩を挟んでも半日程度で十分)。映画と異なる箇所はちらほらあるが、最も大きいのは<海>内部での描写と会話があまり詳細でないことと、お姉さんが教会に通っていること。上述の通り、私は<海>内部の、「世界の果て」然とした儚い荒涼さと、アオヤマ君とお姉さんとの間で交わされる切ない会話が非常に好きだったので、ここは監督の好判断であるし、恐らくお気に入りのシーンだったのだろう。また、お姉さんが教会に通っているという描写からは、彼女の複雑さやある種の聖性を補強するものだと思う。

加えて、原作は終始アオヤマ君の視点から語られるということもあり、盛り上がり所を複数用意している映画と比して全体的に語り口が冷静という違いもある。それから、おっぱいに対する(アオヤマ君の)執着が凄い。映画では物語後半に進むにつれておっぱいに対する言及は減っていき、それがアオヤマ君の変化を表す要素の1つであると私は解釈していたが、原作ではあらゆる情景描写におっぱいが出てきており、かなり末恐ろしい少年である。また、映画のエンディングテーマ『Good Night』が持つ意味は、小説内でしっかりと言及されている。映画では少々頼りないウチダ君が小説でのみ開陳する哲学的な問いと併せて、是非原作で確認してみて頂きたい。最後に、一部本稿の文体が硬いのはアオヤマ君リスペクトということでお願いします。とにかく良い映画だった