自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

06/04/2021: 編集と切断 生存のための繰り返し

現実、という言葉をどのように理解するか。人間がこの世の全てをありのままに把握することはできない。その間には避けようのない器官があり、それぞれの歴史があり、波長があり、時間がある。差し当たりそれを、この世のありのままとしたところで、現実を見るとはどういうことなのか。あるとすれば、世界に適切な編集を加えて、それを損なわない形で、ひとつの主体として理解するということだろう。しかし困難なことに、その適切さというものには何の手掛かりもない。無理に裏付けるとすれば、周囲の人間、あるいは環境、その他との連関の中で朧げに析出されていくものなのだろうが、その選び取り方はどのような手段を取ったとしても偏っていると言わざるを得ない。そして、しばしば存在する因果な人間たちは、その編集の結果として、わざわざ解決不能な問いばかりをこの豊穣な世界から浮かび上がらせてしまい、その不可能さをひとつの理由として本質と名付けてしまう。そうであっても、この選択は、先に問題にした現実の一つのあり方であることに間違いはなく、現実が現実として存在し続ける以上、どこかでひとりでに消えるものでもなければ、この世でたった一人が見続ける孤独な夢に近いものでもないはずだ。

ここで最初に立ち返って、誰かが、例えば誰でもいいが、私が現実を見るとしたうえで、そこで生きるためには、各自の、まずは私の、世界の編集の仕方、更に言えば、その切り取った窓の中に座るあなたのそれにも、矛盾を来すことなく対応した立ち振る舞いが求められる。現実を見るということと、現実を生きるということは、強く関連してはいるが、複数の編集が併存するという点で大きく異なるものである。善く生きるということは、抽象的な表現に頼ってしまえば、世界を適切に編集し、その中でそれに応じた立ち振る舞いを全うすること、この二段構えであると部分的に言い換えることもできよう。ところで、善く生きる必要がないというのならばそれでも構わないし、私はそうした立場を支持できる。一方で、それを放棄した場合に我々の立ち振る舞いを規定するものは何になるのであろうか。それは具体性が高まるほどに柔軟性を欠き、抽象性が上がるほどに頼りないものとなる。具体的対象の中に抽象的な何かを見出すとしても、その両方の危うさを兼ね備えてしまうというのが、残念ながらやがて訪れる結末だろう。ただ、その脆さがゆえにそこに一つの尊さが存在することを私は否定しない。他方、善く生きようとすることは、その多義性と曖昧さの帰結として、常に決断を要求する。これは先程の二段構えの言い換えである。決断を要求され続けることは、一面としては過酷なことであるが、その結末を置いておくとしても、あなたがあなたであること、私が私であることの何よりの証拠となる。私はこの意味でこれ以上の証拠となるものを、他には知らない。裏を返せば、別にそんな証拠は不要です、ということであれば、私個人としては、善く生きることによる効用は然程ない、と言うより、別の何かにあなたを規定させた方が、我々が切り取った世界の中での立ち振る舞いは、よりシンプルに、美しく、機能的になるだろう。

さて、仮に我々が善く生きるとして、問題になるのが編集と切断の差異だ。編集の適切さは、(量的にも質的にも)不足すれば混乱と無秩序を生むし、反対に、これが過度に進めば、言い換えれば、現実を見、世界を理解するために必要不可欠な編集がどこかで切断の域に達してしまえば、我々が世界を大きく見誤ることに直結し(何れにせよ、大なり小なり我々は見誤っている。この世の殆どの問題は程度問題だ)、どちらもその帰結として、少なくとも善く生きることは叶わなくなる。繰り返しになるが、これによる効用はあなたがあなたであることの証拠固め以外にはおそらく存在しない。とは言え、多くの場合は、これ以上の実際的な損失が発生するだろう。ここで、我々に対する誘惑は常に切断の方に存在する。混乱と無秩序と同じくらいに、或いはそれ以上に、我々は世界を編集した結果として生じる解決不能な問いに苛まれがちである。苛まれがちというのは、ここでは存在させてしまいがち、というよりは一度存在させてしまうと容易に離れることはできない、程度の意味である。ここで最初の段落で述べたことにようやく戻ってくる。我々はそうしたものを切断すべきなのか、それを切断してもなお善く生きていると言い切れるのか、切断を続けた先にあるものは何か。ここで述べている、問い、は本来の語義と矛盾するようだが、質問や疑問の形を取っていない概念も、それが実存であろうが本質であろうが、含んでいると考えてよい。新たな事物や概念、現象や状況に出会うたび、我々は世界を再編集する必要に迫られ、その中での立ち振る舞いを再考することになる。勿論、これは少なくとも生理的な要求ではないし、立法された試しもないので、本来的にはする必要はないのだが、我々の狭義の生存のためには、これを繰り返すことが様々な理由で求められると私は思う、というより私は信じる。様々、というのは、例えば繰り返し述べているように善く生きることのために、実際的な利益のために、他にはよりシンプルに、世界の正確な把握を推し進めるために、或いはそこやあそこにいる誰かのために、である。編集と切断の境界をさまよい、注意深く足元を睨みながら、日々の二重の繰り返しを進めている。私はまだ、いつしか切断のみを繰り返すようになったその先に何が起こるのかを知らない。私による編集は一体どのような形態なのか、また私がいつ証拠集めに飽きてしまうのかも分からない。これらも最早、私による編集の賜物と言えよう、と自嘲もしたくなる。私が境界だと思っているものをとうに踏み越え、新たなモノに規定されているように見える人々もいる。翻って、私の不格好なそれよりも、随分と洗練されたラインを描いている人々もいる。そんな様子を見て狼狽える私を尻目に、世界は日々、新たな繰り返しを私たちに迫っている。それが見えるのか、見えないのか、見ないのか、見ようとするのか、その切迫だけを以て、現実という困難な言葉を代弁させてしまうのも、それはそれで間違いではないような心持ちが今はする。