自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

28/04/2018: 『リズと青い鳥』(補遺)

2週連続で同じ映画を観て、更にレビューも2回書くという行為に異常性を認めることは可能だろうか。そうそうお目にかかれることではない。しかしそんなことはどうでも良い。まだ書き留めておきたいことがあるのだから致し方なかろう。それだけの推進力を与える作品ということだ。思いつくことをそのままに、品性下劣ながらひとまとまりの単文群で書き連ねることとする。文章ですらないかも知れない。ちなみにこの記事は本作の主題歌であるHomecomings –『Songbirds』を再生しながら書いている。YouTubeOfficialで上がっているぞ。「夏の初めに燃やした日記帳から 逃げ出した幽霊たち」がマイパンチライン

 

 

 

 

 

 

いや……第三楽章やった後の生物実験室(?)でのやりとりを咀嚼していたら感情がとんでもないことになってきた。鎧塚が止めどない勢いで傘木の良いところを並べ立てるけど、それ殆ど全部貴方のコンプレックスの裏返しじゃないですか……んで傘木が返すのも「みぞれのオーボエが好き」としか返さないってもう、貴方もコンプレックス起動型ですか。自身のコンプレックスから派生してしかお互い相手を想うことは出来ないんですか、お2人さん。でもだからこそ、他の人々にはないような重たくて奥行きのある関係性になってるんですかね。黄前と高坂とか、中川と吉川とかはお互い自分を持っていてそれなりに自分のこと好きだから、感情のぶつけ合いにはそこまでならんのでしょう。ってか人のパートを勝手に演奏してるあいつらはマジ何なんだ。あーでもコンプレックスで全部片付けるの本当に愚かな気がしてきた。俺にもっと人間と作品を深く理解する力があれば。傘木は人間として良くいる、何でも出来て人当たりも良くて何となく全てが上手く進む(=世の中的にはそんな人間そうそういないし「良くいる」はずもないのだが俺はアニメの話をしているんだ、分かってくれ)けど、決定的な才能がどこにもなくて、それが悔しくて仕方なくて、目を背けるけれど他の何となく上手く行っていることなんて本当に取るに足らないものに思えてきて、そしたら自分の籠の中にいると思っていた鳥に指を噛まれて。ズルいよな、ズルいよ。だけど鎧塚「だけ」に見つけて貰うために、第三楽章を演奏した後に生物実験室に逃げ込む貴方も、違った意味ながら大概ズルいですよ。貴方は鎧塚にどうして欲しくてそこに逃げ込んだのですか、他のよしなしごとは一杯伝えているのに、そういう大事なことほど伝えられないんですね。中川パイセンが言っていたように。

 

いやしかしその感情は分かる、分かると信じたい。後輩に自分のフルートを褒められていい気になっていた直後に、鎧塚「だけ」が新山先生に音大のパンフレットを貰っていて(この時の傘木が醸し出す負?憎悪?嫉妬?のオーラはとんでもなかった。もし顔が映っていたら完全にホラーだった)、鎧塚ときたらそれを特に誇りとも思わず、鈍感にもいつも通りのポーッとした顔をしてそれを臆面もなく伝えてくる。こっちの渇えも知らないで。傘木だったら(嫌らしくない程度に、それを絶妙な勘所を以て理解しつつ)人に言い触らすのにな。それでその後一人で屈託を抱えながらも新山先生に特攻したけどまるで相手にされなくて、組んだ手や脚で苛つきを表現していましたね。仕草で思い出したけど、鎧塚も鎧塚で他人の口からコンクールの話題が出るたびに「(いや……そんなんどうでもいいですわ……)」と言わんばかりに毎回髪を撫でるのをやめろ。あとバスケ代わって欲しいなら中川パイセンにちゃんと言葉で頼もう、子供じゃないんだから。中川パイセンはイケメンだから察してくれるけど。二人とも本質的には世でやっていけない感じなのがまた際立っている。

 

音大の話が出てから、更に剣崎が鎧塚と仲良くなってからの傘木の変化には生々しい怖さがあった(と同時に鳥っぽい(鳥っぽいって何だ)動きが傘木から喪われていく)。だが、それでは貴方はそれまで鎧塚に、自分の他に友達も予定もないことも知っていて、演奏のレベルも自分が脅かされる程ではないという認識も持っていて、ああいう質問を投げていたのですか。それから、鎧塚の「好き」の重み、それが如何ほどなのかを知っていながら、冒頭やたらと「好き」という言葉を連発したり、鎧塚が寄りかかるか、何か大切なことを言おうとしたら避けたりしていたのはわざとなのですか。それとも鎧塚が自分の心の中に入ってくるのが怖かったのですか(きっと貴方にはそれまでそういう経験はなかったのでしょう)。鎧塚の言う「練習」は彼女にとって「希美と一緒に居られる時間」と同値であるということに少しの配慮も払わず(「本番なんて、一生来なくていい」の演技が強すぎる)、「『練習』、好きだよ」と笑顔で答えたのもわざとだったのですか。わざとだったとしたら貴方は悪い女だ。わざとじゃなかったとしたらもっと悪い女だ。でもこの「練習」が、最後の場面においては鎧塚が先に校門を出、外の階段でも鎧塚の方が高い位置にいた挙げ句、「本番頑張ろうね」(ハッピーアイスクリーム!!!)になっていたのが本当に、本当に……鎧塚は遠くに行ってしまうのだな、ようやく磨りガラスの向こうにいたお互いが少し見えてきたのに、違う道を歩むと決意することがお互いの距離を真に縮めることの鍵になっていたなんて、何と皮肉なことか、何故神は籠の開け方を教えた給うたのか……校門を出るときに飛んでいた二羽の鳥は近付いたり離れたりしながら飛んでいたが、あの二羽はその後どうなってしまうのか……そして最後、傘木が鎧塚に掛けた言葉は何だったのだろうか。己の「音楽の才能」に見切りを付けて、やっと鎧塚と一人の人間として向き合うことが出来て、傘木の心に芽生えた「鎧塚の好きなところ」なのだろうか。生物実験室で伝え合った(コンプレックスの裏返しとも取れるような)お互いの「好き」が、傘木にとっては音楽に対するある種の諦念を得て、鎧塚にとっては傘木からの解放を得て、僅かに、しかし本質的に変化した結果、いまお互いがお互いに対して抱く「好き」は一体どんな言葉で表現されるのだろう!!!ああいう終わり方最高なんだよな……間違いなく「ハッピーエンド」だ。言葉にしてしまったらそこから先が生まれないんだ。鎧塚の瞳が煌めくたびに、そして糸目になって本当に幸せそうな表情をするたびに、劇場でクソデカ溜息を漏らしていた迷惑人間が俺だった。前回の記事にも書いたがフルートに陽光が反射しているシーンはそういう鎧塚の表情が具に感じられて言葉では語り尽くせないくらいに好き。ホンマに好き。先述の階段の位置関係くらいは掴めたが、人物の表情、仕草、台詞の裏(どいつもこいつも言外の意味ばかり忍ばせてくる)、音楽等に集中する余り、構図の方には目が配れていない気がする。次回はそこに注目しよう。

時間は巻き戻るが、剣崎と鎧塚が仲良くなった契機が「リードを作ってあげる」というある意味実利的な事柄であったのもクリティカル。きっと貴方は、他者に何かを与えられないならば、自分には他者と関わる資格はないと思うタイプの人間なのでしょう、「私が行ってもつまらないから」と面と向かって言ってしまうくらいに。分かるぞ、俺もそうだから。自分の価値というものの実在を信じられず、具体的な物や利益を介さないと他者との関係が息苦しくなる、そういうことで合ってますか。生物実験室でフグを眺めているのも、可愛い顔して強烈な毒を持っているとかそういうところなのでしょうか。でもそんな皮相的な読み方で良いのか、俺には分かりません。どうでも良いけど「フグに餌をあげてた」じゃなくて「フグにごはんをあげてた」って貴方は言うんですね。傘木なら絶対「餌」って言うぞ、賭けてもいい。振り返ると(当然ではあるのだが)剣崎の存在はかなり重要でしたね。傘木なんかよりもよっぽど鎧塚に対する「好き」がDefineされてたんじゃないでしょうか(適切な日本語が見当たらない)。それだけでもかなりの役割を占めている。

音楽的素養がないので演奏に就いては沈黙を守らざるを得ないのだが(とは言え人間関係や映像の方に素養があるわけでもないので、素人は黙っとれという話になるのだが喋らせてくれ頼む)、演奏の直前に吸う息?の演技が抜群すぎてたまげた。何だアレ?魂の籠もりっぷりがおかしい。やっぱ声優って揃いも揃ってとんでもねぇ天才なのか(それはそう)?じゃあラジオで世間話とかリスナーからのしょうもない質問の答えなんてしてないで、同業者とガチの戦争をやってくれ、そういうのを俺は聴きたいんだ。とにかく全編通してそうなのだが、特に演奏のシーンでは滝先生の言う「楽譜の間」が十二分に発揮されていた。

なんか一切のまとまりがないが、思い出せる限りではこれくらい。

今度はミュージックPVが上がっていたので貼っておく。

https://www.youtube.com/watch?v=OGWO3u8zgTU

23/04/2018: 『リズと青い鳥』

私がずっと前から公開を心待ちにしていた映画である、『リズと青い鳥』を観た。紛う事なき傑作である。青春部活モノ、少女同士の関係性、ひいてはアニメ作品、といった本作に嵌められがちな枠を越え、一つの作品として非常に価値の高い映画であったように思う。以下、ネタバレを含む感想を取り留めがないが記す。一点下手な前置きをさせて貰うと、本作に関して何かを語るという行為は、少なくとも私にとっては様々な面で途方もなく難しいことであり(それくらいに本作の正確な評価と受け取り方は困難に思える)、しかしそれでもいま自分の中に渦巻く想いや考えを整理し、文章として残さないことはいずれ必ず後悔をもたらすであろう、という信念に基づいてこの記事を書いている。一回観ただけでは到底語り尽くせるものではなく、本記事に拙い箇所は無数にあるだろう。だが、このどうしようもなく愚かで、退屈で、人間性を削いでくるような現実世界において、本作は一筋の希望の光であり、それに関する文章を認めることは我々に残された数少ない娯楽なのだと思う。さあ、これを読んでいる君も『リズと青い鳥』の感想を書いてみよう。以下、ネタバレ開始。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作の上映時間は約90分であるが、その間、観客に瞬きすらも許さず、常に耳をそばだてることを要求するような緊迫感が、途切れることなく続いていた。それは『響け!』TV版でしばしば見られたモノローグや説明調の台詞が極力廃され(久美子のモノローグは、それはそれとして好きなのだが)、登場人物の仕草、瞳の煌めき、物体の配置と描き方、他の登場人物の会話とそれからの対比、授業の内容(「互いに素」とか久しぶりに聞いた)、色が染み込んでいくベン図(という認識で良いのだろうか)等及び、それらを支えつつ支配する劇伴を通じて、静謐で、緻密で、触れたら壊れてしまいそうなくらい繊細な画面に渦巻く希美とみぞれの強烈な感情が雄弁に語られており、観客はそれらを一つとして見逃すことを許されていないことによるものだ(今回の作画スタイルは本当に好き、儚いと言うか何と言うか……自分の語彙力の乏しさが恨めしい)。語られる数少ない台詞ですら、その意味を額面通り受け取れるものは少なく、観客は常に緊張の糸を張り、注意深く登場人物の心を探る必要がある。
その中でも特に長い尺を使って執拗に描かれている歩行のシーンに注目したい。個人的には希美のフルートに反射した陽光がみぞれの身体に当たっているシーン(希美の眩いばかりの天真爛漫な振る舞いが、みぞれの心を暖かさと共にかき乱していることの比喩なのだろう。みぞれの表情は、戸惑いつつもそれを己の幸福として受け容れているように私には見えた。みぞれの方が先に反射の現象に気付くことや、二人の物理的な距離が隔たっていることにも意味があるのではないか)が一番好きなのだが。
歩行に関して言うならば、学校とは、歩き続ける場所である(突然何だ)。本作において現実世界の舞台が学校の外に展開することはなく、鳥籠のような、外界からは隔絶された世界の中で刻一刻と変化していく学生達の内面を描いている。当然、希美とみぞれの歩行は、学校の中やその周辺でのみ描かれている。「学校とは歩き続ける場所」、というのは、コンクールや定期テスト、更にその先の将来、その通過点としての受験、といったように常に目標がある場所であり、またその目標を多くの人間が共有して目指している場所、毎年上級生はいなくなり、下級生が入ってくる場所であって、従い常にある方向に向かい進歩することが求められる、そういう意味で「歩き続ける場所」であると思う。しかし、学校において大まかな目標は他者と一緒だとしても、そこに向かう速度、歩幅、ルート、立ち止まるタイミング等は、実は人それぞれである。また、同じ目標に向かって進んでいたとしても、歩調が一致する(=同じことを考えている)とは限らない。それでも、同じ場所にいる彼彼女らは、共に歩まなければならない。冒頭、(体感時間として)5分以上をかけて描いた登校のシーンでは、みぞれは希美にピタリとついていき、二人の歩調は一致していたが、劇伴には若干のズレがあった記憶がある(間違っていたらゴメンナサイ)。言うまでもなく、表層的には同じ方向を見て、同じことを考え、思っているように見える二人が、その実お互いのことを理解できていないことの表れである。ここで彼女らは学校に入っていく。少し脇に逸れるが、「お互いのことを理解していない」に関連して、本作の中で、希美に対して「ここでそれ言う!?(一般的な会話としては極めて常識的)」とか「なんでそこであれ言わないんだよ!(TV版の通り、別に言う「必要」はない)」思った場面は枚挙に暇がなかったということを付け加えておきたい。みぞれの理解不足が、基本的には希美の嫉妬を知らないことや(みぞれにとって希美は自分の全てであり、かつその外側さえも持ち合わせている人間なのだからそうなるのも仕方ない。みぞれは希美が音大に行けるということを疑いもしなかった)、自己に対する気付きの不足(主に、自分も飛び立つ存在であるということ)に留まるのに対し、希美は重症ではなかろうか……ただそういうところもみぞれにとってはある種の魅力に映るのだろうから難しい。
さて、他にも歩行のシーンはあったが、印象的な場面を取り上げる。衝撃が強いのは図書館で二人が別の本を借りたシーンの後。二人はお互い鋭く制服のスカートを翻し、別々の方向へ、緊迫感が殊更強調された劇伴と共に早々と歩を進めていく。みぞれは音大へ、希美は一般大学へ、二人の目標が初めて分かれてしまった瞬間である。ここで二人はまだ学校の中にいる。しかし、ラストシーン。二人は校門で待ち合わせ、劇中としては初めて学校を出て行くが、そのときの二人の歩幅は(確か)一致していないし、帰りに食べたいものの案も取り留めがない(それは別にどうでもいいことなのかな……わからん)。しかし、劇伴は飽くまで穏やかで、二人を包み込むような曲であり、何より最後に「ハッピーアイスクリーム!」の一致を見る。ここにおいて、二人は他者の定めた目標から離れてそれぞれの道を歩み始める、勿論考えていることも違う、だがお互いをようやく理解し、心は共にある、という境地に至ったのだと感じた。希美の言う通り、物語は爽やかなハッピーエンドとして続いていく(「閉じた」のではないところがミソだと思う)、と私は信じている。
「閉じたのではない」の意味するところは、パンフレットにも書かれているが、本作は「途中から始まり、途中で終わる」物語であるということだ。恐らくこれは、人間の変化、感情のリアリティを追求した結果であると考える。人間の変化は、実はオーディションやコンクール、言い争いの瞬間や別れの刻と言った、(他者から見ても)節目となるような出来事で決定的になるものではないのではないか?感情が真に揺れ動くのは出来事があった後の、何気ない瞬間なのではないか?というのが本作の問いかけである。アニメに限らず多くの創作物の定石として、印象的な出来事を以て人間の変化や感情の機微を描き、その核となる出来事、『響け!』TV版で言うのであればコンクールを以て物語を閉じる、という筋立てがある。しかし、我々の人生は、コンクールの後も続いていくし、コンクールの前後にこそ自己の変化や感情の昂ぶりがある、というのが実態ではないだろうか(私はコンクールなんて出たことないが)。本作で最も大きな出来事である第三楽章のシーンですら、奏でられる音楽が全てを語り、登場人物はその場では多くを語らない(話は逸れるが、それまで極めて抑制的に進めてきた物語が、第三楽章で昇華され、二人の関係性が決定的に転回する構成は極めて見事だと言わざるを得ない)し、ハグのシーンでも希美は「軽蔑されるような存在」(この台詞結構好き)、「みぞれのオーボエが好き」と返すに留まった(あそこでもっと感情大爆発レズ祭りワッショイになってたらまた違った映画になっていたのかも知れない。寧ろ『響け!』TV版ではそういう手法が取られていた記憶があるが、敢えてTV版とは一線を画したということだろう)。
構成の妙という点においては、劇中劇を「ミスリード」に使ったというのが巧みである(誇ることではないが、希美が冒頭からして劇中劇に関して「私たちみたいだね」と述べていたことから、どこかで逆転はあるのだろうなという予感はあった。リズと、青い鳥の声優は一人二役だし)。ここもまた関係性におけるリアリティを追求した結果、というより「関係性」という概念に関して、制作側が出した問いであり答えなのだと思う。人間同士の関係性が、果たして典型的な物語で描かれるような、固着したもの、類型的なもの、一方的なものであるのだろうか?という問いだ。皮肉めいた言い方をすれば、私個人としての自戒も含め、(アニメに限らず)我々は創作物における人間関係を、類型的に「処理」し、「摂取」している嫌いがあるように感じている。だが創作物における登場人物は一つの人格であり、単独でも複雑なそれが、他者と絡み合うことで深く豊かな世界を作る、そういう作品を目指していこうというメッセージのように私は感じた。何も希美とみぞれの関係性は、少女同士のそれに局限されたものではないし、少女同士だとしても、ピタリと嵌まる類型はないと私は考えている。
本作は、それが主目的ではないにしても、これまで述べた「伝わりやすい構成」「出来事」「関係性の捉え方」、というそれぞれの面について、既存のアニメに静かに反旗を翻す、挑戦的な作品であったと理解している。勿論、これに類する作品は数多くあろうが、ここまで徹底しているものを私は知らない。冒頭で「青春部活モノ、少女同士の関係性、ひいてはアニメ作品、といった本作に嵌められがちな枠を越え、一つの作品として非常に価値の高い」と本作を評したのにはそういう理由だ。しかし、それと同時にこの姿勢はアニメ作品一般としての本質を浮き彫りにしているとも思う。登場人物の表情含め、描く物全てに意味を持たせ、出来事の前後にもフォーカスし、人格同士の関係性に執着した物語の作り方が出来るフォーマットは、今現在においてアニメーションだけなのではないか。そういう意味で、本作は次代のアニメーションの手本とも言える作品だ。

長くなったが最後に一言。やっぱり何だかんだ言ってTV版からそうだけど、俺にとっては夏紀先輩が最高だわ……元々台詞が多い役ではないのに、「君はあすか先輩じゃないんだよ~?」や「近くに居るからって、何でもかんでもみんな話す訳じゃないもんね」のような、本当に彼女らしい、慈愛と諦念が絶妙なバランスで混じり合った台詞が心に響く。本作の作画のために、一層クールかつ繊細な印象を与えるようになったばかりでなく、主役の二人以外で一番重要な役割を果たした夏紀先輩に本作のMVPを贈りたい。

(参考)本作のロングPVの出来が素晴らしかったのでリンクを貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=lQxwNaoFdQQ

15/04/2018: 『パシフィック・リム: アップライジング』が最高だった話

タイトル通り。『パシフィック・リム: アップライジング』がとても良かった、って言うか好きな映画だったので記憶が薄れないうちに乱筆でも感想を認めておこうと思います。特に筋の説明はしないし、ネタバレばかりなのでその辺は許して下さい。幾らか行を空けますので、観る予定のある人(居るのか?)はここでサヨウナラです。

 

 

 

 

 

 

 

本作の良かった所をパラパラと挙げるのであれば、

1.         前作とは異なるアグレッシヴなロボアクション

冒頭のちょこまかかわいく動くスクラッパー(小よく大を制するはジャポネの文化)、ビルを重力操作装置?でドンガラ倒したり、ジャンプで諸々をスレスレで回避したり、画面外からスライディングで登場したりとか。序盤で敵もイェーガーを使ってくるというところがもうそういう路線なんですねと切り替えられた。あのウルトラマンシャドーを彷彿とさせる所謂ニセモノ的デザインが本当にイケてる。これは前作もそうだけど2人のパイロットの動きがシンクロして必殺技を繰り出すところが格好良すぎる。リアルタイムの動きで操縦するならやっぱパイロットは2人だよ。抜刀の構え、スローモーションの回転斬り、右ストレートからの左アッパー!とか最高。決めポーズしてる暇があったら追い打ち掛けろって話だけど、それはロボ武士道に反する訳ですよ、ロボ武士道ってなんだ?

逆にここをどう見るかが前作と比較してどうか、ってポイントになるのだと思う。前作はゴジラ的特撮+鉄人28号マジンガーZと言った重厚で動きの質感が強いアクションだったが、本作は戦隊モノ的特撮+ガンダムエヴァンゲリオンと言ったスマートで軽快なアクションにシフトしている印象がある。僕はまあどっちも好きなので良いのだけど。

2.         見え見えの伏線から想定内と想定外を絶妙なバランスで繰り出す矢継ぎ早な展開

怪獣の目的地が富士山とか言い出したときは唐突すぎて笑わざるを得なかった。一応レアメタルとか言って伏線張ってたけど、んなもん他の所にも埋まってるでしょうに、サクラダイトでも堀り出すんか?また無人機は暴走するし試作品は大活躍するし本拠地は敵に強襲されるものと相場が決まっている。あと脱出ポッドが使えなくなるのもお約束だし、絶対最後はスクラッパーが助けに来ると思ってたよ俺は。だってあれはアマーラの誇りであり相棒であり希望だもの。最後にスクラッパーを駆る中国のお姉さん(ちゃんとリーウェンって名前があるけど敢えてこう呼びたい)がSo Sexy and Cool。あれはアマーラのあり得た将来像なのかもと思ったり、中国のお姉さんも昔は親父とバイク弄ってたのかなとか想像したり。

3.         イェーガーに仕込まれたギミック

ヴィクの砲台転回からのマッドマックス状態突入はガッツポーズしか出ない。ヒャッハー!それから男の子はメリケンサック型バルカンが好きだし、地面にちゃんと薬莢が落ちるのはもっと好きなんですね。あの辺は確かF91でもちゃんと映されてた記憶がある。あとEDでこれでもかとイェーガーを見せてくれたのは本当にありがとうございました)

4.         キャラクターの関係性(これは後述)

5.         イカした台詞と画面作り

ゴットリーブ博士の「『理論上は、』という言葉は———今日に限っては『使える』という意味だッ!」という本作最高台詞からの前作最強テーマソングを流しながらロボアニメのクライマックス入口標識であるところの最終決戦前の基地建て直し作業+急造機体の整備のシーン……最高か?「英雄は初めから英雄だったのではない!」というジェイクの激励からの富士山をバックに巨大ロボ4機が東京都心にヘリワイヤで空輸されるバカ画面……最高の2乗か?アマーラの「チャンスは1度しかないわよ!!!(いや今までのも全部そうでしょうよ)」からの大気圏突破、再突入、座標調整を挟んで流星パンチでKAIJUにトドメを刺す……なんだこれは)

6.         小粋なジョークを忘れない精神とちょっとした小ネタ(量産型エヴァまんまの無人機(アマーラの機体が喰われたりしたらどうしようと思った)、等身大ユニコーンからのアナハイム社看板とか。他もっとあったかもね)

と枚挙に暇がない。 

はい、各論になりすぎたしクソ読みにくいっすね。さて映画全体として見たとき、本作はヒロインであるアマーラ(CV: 早見沙織←個人的にここ大事!)の物語として捉えると視点が明快になると思う。(1)スクラップを集め、自分の作品としてスクラッパー(まんまやん……)を一人で作り上げ、(2)ジェイクという教官との出会いから師弟関係、疑似兄妹関係と関係性が深化していくことを通じて自らのトラウマを克服し、(3)他の訓練生、特に表層としては何から何まで対照的なヴィクとの友情を育み、(4)自ら臨時の代役パイロットを買って出て、スクラッパーの力を借りて勝利を手にする、と言った流れである。

最も重要なの当初トラウマのためにイェーガーに乗れなかったアマーラが、マコの死に直面したジェイクとの交感を通じて立ち直り、イェーガーに乗れるようになること。これを経て、2人の関係は単なる師弟関係を越え、戦争によって(自分に何とか出来たかも知れなかったのに)大切な人を目の前で失ったという経験を共にする特別な関係(マコとジェイクの関係性も踏まえ、疑似的な兄妹関係と私は捉えている)になる。お互いがお互いを信頼し、尊敬し合う、だけどアマーラはジェイクに心のどこかで甘えている(幼い頃に家族を亡くしたのだからそうだろう)し、ジェイクはアマーラを心の支えにしている、という関係性で在り最後の雪合戦のシーンはそれを象徴しているように感じた。尊いね……

脇道に逸れるが、前作の重要キャラクターであるマコの死をあのタイミングで入れることについては賛否があると思う。しかし、父親との関係に屈託を抱えるジェイクの自覚を促し、かつアマーラとの関係を強化し最後にKAIJUを打ち破るというプロットを考えると、良い選択だったのではないかと考えている。

んで!お待ちかね(?)のアマーラとヴィクの関係性ですよ。ジェイクとの関係だけではアマーラはここまで強くはなれなかった。身体の大きさから、訓練生に選ばれた経緯から、使う言葉から、名前の印象(Amalaには「女闘士」との意があるそう。Victoriaは言わずもがなの麗しいお名前)から、(勝ち気で気が短いところ以外は)色んな所が違う2人が衝突を経て盟友となっていく。ヴィクがアマーラを認めるのは、恐らくアマーラが真剣に戦おうとしている意思を確かに感じ取り、共に戦う仲間だと思うに至ったから、という点に尽きるだろう。(ヴィクの視点からして)ようわからん所で機械弄りなんかしてポロッと拾われてきたちんちくりんのアマーラなんかに負ける訳には行かないし、背負っているモノが違うという感情がある(推測に過ぎないがヴィクも戦争孤児なのだろう、だからこそ何度落第しても訓練生になろうと努力した。アマーラと関わっていく中で、そういったモノを背負っているのは自分だけではないと感じたのかも知れない。ジェイクとアマーラの逆パターン)。しかしアマーラは戦いに対しても、他の訓練生に対しても真摯に向き合い、実力があることも示し、心を閉ざしていたヴィクの信頼を勝ち取るに至った。わざわざロシア語で侮辱をするというのは、ヴィクに対して距離を置きロシア語で話すこともなかった他の訓練生との対比を考えれば、その片鱗だろう。そしてその信頼が先述の最高砲撃シーンで裏付けられる訳です(ロボアニメは、戦闘外の関係性構築が、切迫した戦闘の場で垣間見えるのが良いんですよね……)。尊いわ……

こう、伝わるかどうかは分からないけれど、『電磁戦隊メガレンジャー』における久保田博士や早川裕作と、高校生戦隊5人との間にある、親とも上司とも先生とも付かないような絶妙な信頼関係とか、高校生同士の衝突と和解といったものと似たようなエッセンスを感じた。

なんかまだ全然書き足りないのですが、もう眠いんで寝ます。続きはあるのか?

08/04/2018: 新生活スタート号

引っ越しに伴う諸々の作業で更新が滞っていた。本を読むためのまとまった時間も取れず(今週はようやく2冊読めたし、こうして久々の更新を行う余裕もできた)、友人を新居に迎えられた以外は、生活の体勢を整えるために最近の時間を空費してしまったと言える。これまで新居に招いた人間(延べ10人強)のほぼ全員が、他人の家に上がり込んでまず初めに本棚の検閲をやる人種であったという事実は、寧ろ私という存在をある一面で浮き彫りにしているように感じる。我が新居は頗る快適だが、様々な理由で長居はしないだろうとも思う。どうも空間を持て余すし、こちらの心持ちによってはモノばかりがあって空虚な印象さえ受けてしまう。ユニバースを作る余地のある4畳半こそが私にはお似合いだ。ちなみに階下には若いカップルが住んでおり、2人の苗字は異なっているが、それが果たしてステータスの問題なのか、イデオロギーの問題なのかは、私には知る由もない。引っ越しの挨拶と共に私が彼らに送り込んだ和菓子折は彼らについて何かを知っているだろうか。その菓子を受け取ったのは女であり、私が遅刻寸前のタイミングで玄関において鉢合わせたのは男であった。そして私は、その2時点間において恐らく違いを殆ど認識できないような、出来合いの微笑みを投げる。仮に怪しく見えたとしても、自分は敵ではないと明示しておくのは手筋である。ところで、私に似合う生活とは。

労働に関しては、最早私は語ることを持たない。そこに在り、遣り、葬るだけ。箪笥に洗濯物を畳んで収納するように、億劫で仕方ないが、やるべきことは身体が覚えており、偶に母親の小言が入る。それだけのことである。イレギュラーの到来を待ちながら、心の底では来て欲しくないと願っている。こうして人は自分の色と知恵を喪っていく。

以下散文(上も然りだろうが……)。

鹿児島の事件。今後わが国ではこうした事件は頻発するだろうという予感がある。主観的には全てを終わらせなければならない状況に追い込まれる人々。何が最も強く作用している要素なのかは正直よく分からない。ところで常夏のあの島では一つの答えが出たという。昔(1~2世代前)もそういう人間は必ず居たと思うのだが、(敢えて不適切な表現を使うならば)どう「処理」されていたのだろうか、そしておそらく文献にも統計にも表れない「歴史未満」「データ未満」に人間はどう向き合えばよいのだろうか。無視できるモノに対して無視以外の選択を取る人間は聖者か狂人でしょうが。前者の問いに関しては今度実家に帰ったときにでも祖父母や両親に訊いてみるか。後者の問いは。

バーチャルユーチューバー。上記に関連して言えば、全てを半分終わらせる方法、という認識がある。自らの肉体という桎梏から逃れたいと思う人間は世界の何割を占めるのだろう。小洒落たデパートに行き、服飾売場、化粧品売場、アクセサリー売場(造詣が浅いのでこれが正しい名称かは分からない)を横目に歩き、美しい商品群に目だけを惹かれる。翻って私が買うモノと言えば出張先への手土産か、無難なネクタイが関の山である。正直に言って、私が美しい人間を最も羨ましく、妬ましく感じるのはその瞬間だ。彼彼女等は、自分で自分を玩んで、誰にも迷惑を掛けることなく幸福を手に入れることが出来る。自慰なんかじゃ及びも付かない快感であろう。仮に私がどんなに賢くても、どんなに金を稼いでも、どんなに欲しいモノを手に入れたとしても、その領域だけは不可侵である。さて、私と思いを同じくする人間が多数派を奪取したとき、世界の主戦場は民主的手続により電脳空間に移るのだろうか。「外見による差別のない正しい世界へ」と叫ぶ政治家のパフォーマンスには広告代理店の技術の粋が集まるという妄想がある(ちょっと見てみたい)。世界の半分が自分の半分を終わらせたいと願う時代、75%未満になった世界は誰を幸福にするのであろうか。キング牧師の死から丁度半世紀。「私の夢」はバーチャルアイドルになった。

読書。平田オリザの『演劇入門』が面白かった。98年初出の本なので、やや時代認識が古いが、演劇に限らず創作物全般に関して、どういった台詞や場面、全体構成の組み立て方が効果的なのかについて極めて分析的に論が立てられており、自分が様々な作品に対して抱いていた印象が丁寧に言語化されていた。新発見としては、コンテクストの摺り合わせという観点で演出家と役者の関係性を整理している点及び、両者の権力関係を緩和するためにどういった策を講じているか、といった点。以前読んだ『スクリプトドクターの脚本教室』の内容が一部濃縮されている(後者の本はイマイチだったが)印象。次は話題の、歴史学者を廃業したあの先生の本でも読んでみようか。彼の立場を極めて乱暴に要約してしまえば、現在において歴史学の作法に依って歴史を語る、論じることに最早意義はないのではないか、といったところだろうが、これは私が漠然と抱いている問題意識にも一致する(超・僭・越)。”Post-Truth” の時代、歴史もまた個々人のビタミン剤のような服用のされ方をするようになっていくのだろうが、一体誰がそれにNoを突き付けられるのだろうか、という倫理的な問題も孕んでいると自分では理解している。

アニメーション。冬クールが終わった。粒揃いであったように思う。クール内で言えば『宇宙よりも遠い場所』がNo.1か。ボロボロ泣いてた記憶しかない。全話録画済みということもあり、これはまた稿を改めて書いてもよさそう、と言って『カリオストロの城』の感想もまだ書いていないのだが。ちなみに当面の人生の目標は同作のラストみたいに『気持ちの良い連中だな』と誰かに言って貰うこと。実は引っ越し直前にシンガポールに出張し、聖地巡礼は一部済んでいるので、暖かくなってきたこともあり今度は館林と立川にも行ってみようかと画策している。ってか最近旅行してねえ、本当によくない。そして今期は『ペルソナ5』でしょう。初回の滑り出しは上々(地上波で鴨志田の城を何処まで表現するのだろう……)。私は東郷さん推しなのだが、まあ尺も足りなさそうで物語にはそんな絡んでこないだろうし、期待しないで待つか。

14/02/2018: 地の果て

残しておかねば忘れてしまうような気がしたので、平日の夜ではあるが書き残しておく。

大地が終わる場所、それは即ち海に面する場所のことであり、その中でも陸の端が突き出ている場所を岬と呼ぶのは誰でも知っていることであるが、幼い頃から私はそういった場所に心を惹かれて仕方がなかった。思い出せるだけでも、宗谷岬、竜飛岬、潮岬、都井岬足摺岬禄剛崎石廊崎と、数多くの岬を回った記憶があり、それぞれの地の、似通っているようで全く違う景色をまざまざと思い出すことが出来る。海と、山と、天体たちだけがただそこに美しく佇み、そこはかとない亡びを感じさせる情景以上に見るべきものが一体どこにあるだろう。

岬ではないが、この前の休日にも海の見える北の町へ行ってきた。まあ大洗なんですけれども。冬は北を攻め、夏は南を攻めるべしというのは孫子の兵法にもハッキリと書いてある。冬に、しかも北方の海沿いの町に行くのであるから当然寒いのであるが、寒さは動くことで暖まれることも含めて、自分が生きているという実感を得られるので良い。

当初の目的は鮟鱇鍋を食すこと。性懲りもなく鍋を食っている。ところで、その土地のものが美味いのだという指摘は別として、「それは東京で食えるだろう」と宣う人間とは私は恐らく仲良くなれない。金さえ出せば得られるような味覚や、お仕着せの非日常に私は興味を一切持てない。旅の予定を組み、自分の足で見知らぬ町を歩き、心地よい疲労を得たのちに味わう食事にこそ魂が宿ると信じている。斯くして味わう鮟鱇鍋と日本酒は絶品であった。しかしそれ以上に私の心を躍らせたのは、特に何の説明もなく海に浮かんでいた鳥居であった。それは観光名所と呼ぶには余りにも地味で、写真に映えもしないものであったが、えも言われぬ物哀しさと神々しさを湛えており、自然その鳥居の周りにはある程度の距離を置いてちらほらと人々が集まっていた。私は鳥居も好きなので(特に大雪を被った鳥居や、夏の夕暮れの光を浴びた鳥居は最高!また何かの機会にインターネットの海に放流するか)、思いがけず出会った光景に、旅の醍醐味を勝手に感じていた。思い立ったら大体何処でも行けないということはないので、こういった機会は逃さず捉えていきたいと思う次第(あとは愚かな思い付きに付き合ってくれた同行者にも感謝)。

03/02/2018: 今日は二宮飛鳥さんの誕生日だそうです

2月に差し掛かったので、新たにカレンダーを買う必要がある。私がカレンダーを見るのであれば、という話だが。前年のカレンダーはご親切にも一ヶ月先の暦まで用意してくれている。カレンダーに限らず、そうした「親切さ」を目の当たりにするたび、私は吐き気を催す。吐き気はさておき、このブログを散文日記にしてからというもの、人々からの反応が薄く、そういうものかと思っている。とは言え、本来の目的は備忘であるということを忘れてはなるまい。元々観衆など殆ど居ないのだから。

さて、タイトルの通り、今日は二宮飛鳥さんの誕生日だそう。私が二宮飛鳥さんのことをお慕い申し上げているのは過去記事の通り。私に絵が描けたならば、彼女に纏わる美しい物語を紡げたならば、彼女の誕生日をささやかながらも祝うことが出来ただろうに……と思う。(造形に限らず)美しいが架空存在に留まってしまう彼女を、少しでも実存として残すことが出来たら、と私は慚愧の念に堪えない。創作の持つ力を私はもっと早くから認識するべきであった。私は余りにも何も身に付けないまま齢を重ねてしまった。

これに関連するわけではないが、敬愛する先輩が「『私にはコレがある』というものがないので辞めます(要約)」と言い残し弊社を辞めるということが最近あった。彼女の進路は法曹だと言う。もう三十路も近いというのに。常に自らを問い続ける類の(真の意味での)人間にとって、自己とは何かというのは宿命的な問いである。幸か不幸か、私はそういった人間のカテゴリーに属することができた(そうしたカテゴリーに属することが幸福であると信じたい、望みたい、彼女も又然り)。彼女曰く、会社の用事で誰かと会うときにも「それでお前は何が出来るんだ」という有形無形のメッセージを感じるとのこと。全くそれと同じことを感じ、心を痛めるが、何も持たない私は沈黙を守る他ないというのが実情である。

私は考えあぐねている。私は今、何を為すべきで、どういった方向に向かうべきなのかを。少なくとも今行われている日々の積み重ねに展望はない。悲しいかな、我々はそうした時代に生まれついてしまった。焼畑農業を繰り返す現代において、安住の地を求めるというアプローチは自死のみを招き、それを知っている我々は時代の要請として渡り鳥であること強要される。誰も本質的には求めていやしないユートピアに向かって、人々は歩みを止めない。ゲームから降り、澱として生きることが出来たら、ひいては全てを擲つことが出来たら、と嘯きながら毎朝奴隷船に乗っている。

(既に看取している方もいらっしゃるだろうが)私は今Alcoholにより酔っ払っているというExcuseを出さざるを得ない。酒に酔わねばこんな取り留めもないことを誰かに(誰だ?)伝えることなど出来ない(くらいに私は弱い)。このまま私が生き続けることについて何らかの展望があるのか、という最初に問うべき問いにすら私は答えられない。救済は教えによってしか得られないのか、掴み取る営為によってしか得られないのか?後者であることを祈りつつ、私は今日も明日も明後日もそのまた先も、戦わねばならない。張り詰めた細い糸がいつ切れるのかという事実から目を背けながら。

28/01/2018: 今週はなんやかんやあったので本を読めていない

日曜夜にランニングをし、風呂に入り、酒を飲みながらバーテンゲームをし、寝る前にこれを書くというルーチンが固まってきた。良い兆候。但し今週は本を読了していない。

今週も友人と鍋をした。こいついつも鍋食ってんな。性懲りもなく鍋の話をすると、鮟鱇鍋を食べたことがないので(産地で)食べたい気分になっている。2月の3連休の前後週(混雑回避のため)に大洗行くのも手ですかね。オタクは寒さに弱いので空いているはずという希望的観測。そう言えば劇場版最終章も観たけど、良くも悪くも次を観せるための作品という印象。良い意味で個性の強い新登場組、麻子/そど子の関係、大洗が追われる立場へ逆転するという転回、等々良いところは多々あったけど。個人的には逸見さんに10秒くらいお目にかかれたのが最大の収穫。どうでも良いけど河嶋パイセンって、すぐカリカリするものの勉強はちゃんと出来る系の人だと勝手に思っていたのだけど、そうでもないのが意外だった。コアな人心掌握術で登り詰めたんでしょう、こういう人間は強い。

『シルトの梯子』が佳境に差し掛かっている。これ終わったら順番を変えて松島さんのゲー論本読もうかな。脳ミソを取り戻すと共に、UTEconの内輪ネタが書いてあるというのも期待。

アニメの話。ダリフラBEATLESSが若干心配したものの大凡流れて欲しい方向に流れ始めているのが嬉しい。まあ労働を始めて20代も中盤戦に差し掛かると、ピリッとしない主人公には若干の苛立ちを覚えるのだが、自分も外から見たらそうなのであろうという可能性を認識するくらいの謙虚さも同時に身に付けた筈(016が3話の重要ポイントであのような決断をしたことは非常に理解できるし、できてしまう)。それから『新約(敢えてこう呼ぶ)デビルマン』を5話まで観た。詳述は避けるが、漫画版のキーエピソードを上手く現代風にアレンジしており面白いのには間違いないが、ああいうのって森見作品だからマッチしたんじゃないんですかと思うところも多々あり、後半戦に期待と言ったところ。恐らく漫画版の中盤に挟まれた謎タイムスリップストーリーズはカットされてオリジナルが作られるのだろうが、そこをどう見せてくるか非常に気になる。

実存近況。といっても平々凡々、通常運行。会社には基本的に毎日行きたくないのだが、本質的には誰かが近くで見ているところで長時間座ったり、作業したり、話したりするのが無理なんだと思う。どうにも一人でいることに慣れすぎた感がある。あと面白いと思える対象じゃないとクソみたいなやる気と丁寧さしか発揮されないことも無理の一因。それからバーテンゲームにもあったが「自分の人生が指の間からこぼれ落ちていく(日本語版)」という感覚。これ一生付きまとうのかな。毎週末、ランニングをしている最中に大きな橋に差し掛かると、左手には猛スピードでこちらに向かってくる車が、右手には漆黒の川が存在し、私の命はこの歩道、5m未満の幅にしかないのだなという気分になる。奨学金を完済したので連帯保証人である叔母に迷惑を掛けることもないなと、記帳した通帳を眺めてふと思った。