自由帳

Ask perfection of a quite imperfect world.

07/12/2016: キコウブン

旅とも外出ともつかないものに、どう名前を付けたらいいのだろうか。

ここだ、という時期を見極めて、一日だけ、全くの無意味に有給休暇を取ることがある。昼の少し前に起きて、普段通勤で乗っている路線の反対方向、その終点のその又先へ、目に入った乗り換えを駆使して、出来るだけ名前も聞いたことのないような駅で降りるためだ。電車が進むにつれて、平日ということもあり人影もまばらな車内が、どんどんとただの空き箱になっていくのが心地よい。

電車を降りても特に何をするとは決めていない。とは言え、地図は見ずにまず国道沿いを歩き、適当なところで路地に入るのが大体のパターンである。歩きながら、何の変哲もない喫茶店に入って手持ちの本を読み、時代遅れの幟が表に立っているような飲食店を直感で選び、軽く酒を呷り、家に戻って早めに寝る。

先日は丁度それをやった日だった。面倒なひとかたまりの仕事を淡々と、何の感慨もなく片付けた後、半ば無責任に、上長に休暇を申し出た、と言うより宣言した(一日だけならあの面倒な下準備も必要ないのが良い。上下関係やプロトコルには五月蠅い癖に案外こういうところはスッと行くのが勤め先の数少ない長所だ)。

 

主に立ち寄ったのは、書店、中古品市場、ペットショップ。

自分の経験だけから判断するならば、名もなき土地に所在し、「本」と看板が掲げられた古書店は、いわゆる欲望の澱である場合が多い (参考: http://archive.fo/NcReX) 。我々が(ある種の理念型として)想像する「町の古書店」は、様々な流れに追いやられ、「書店街」として売られている場所にしか存在しなくなっているのかも知れない。完全になくなってしまう前に、どこかで出会いたいと思っている。関係ないが、最近観た『聖の青春』という映画にはあらまほしき古書店が登場していた。映画自体もなかなかの出来なので、是非観て欲しい。

少なくとも僕が小学校くらいのときは、祖父に連れられて行った大型の古書店にもそれなりの配慮があり、少年にそれなりの出会いをもたらしてくれる場所であったな、と回顧しつつ、生活の実態が一切見えてこない中年男性と、元気の良い青年店員との遣り取りを横目に、限られたスペースの中で取り敢えず喫茶店で読めそうなめぼしい本を探してみる(大抵見つからないし、今回も見つからなかった。代わりにとあるアイドルの写真集を立ち読みした)。

 

中古品市場の一角では、古い家電、及びそのジャンク品が売られており、得も言われぬ感傷を誘う。フィルムカメラ、レコード再生機(これは正しい呼称なのか?)、VHS、「音が出ます」と付箋が貼られたスピーカー、「つながります」とこれまた黄ばんだ付箋の貼られた黒電話。如何にも俺は機械だ、と言わんばかりのオーラを未だに放っているそれらには顔も知らぬ他者の生活が宿っており、確かな過去があった。そして、我々とその持ち物もいずれはここに収まるのだろうという妙な安堵感をもたらした。ゲーム機コーナーではファミコンSFCですらない)のソフトが二束三文で売られており、これを買い占めるだけでも一生ヒマしないのではないかすら思えてくる。会社を辞めたら適当にジャンク品を見繕い、時代遅れのメカを自作してみたいな、と妄想した。

 

ペットショップの脇を通りかかると、猫がガラス越しにこちらを眺めてきた。店内に入り、こんな場所で未来の飼い主を待ち続ける彼らは何を思うのだろうか、と無責任な想像力を働かせつつ、先ほどの猫の元へ歩み寄ったが、既に僕に対する興味は一切失っているようだった。お前そんなんやったら誰にも飼ってもらえへんで。ペットショップに関しては何を書いても本当に月並みな内容になってしまうので割愛する。早く自己という視点から脱出したい。

その後は駅に戻る途中にあった中華料理屋に寄り、これまた道中にあったタイ古式マッサージ屋で疲れを取った(気の小さい人間なので健全なお店であることを念入りに確認した)。

 

何故こんな無意味で、客観的に見たら何も楽しくなさそうなことをしてしまうのだろうか。多分、誰も自分を知らず、自分も誰をも知らず、自分が自分でなくなっている時間が必要なんだと思う。本当は無意味なのに有意味の殻を被った日々に疲れ、自分が名を持った自分であり続けることに飽きるからこそ、たまにこういう日を自分なりの息抜きとして求めているのかもしれない